前回からの続き。
というわけで、帰省。前の週の三連休、ビューンと沖縄へ行ってきた。
週頭、母親からの電話で事態が判明してその翌々日に航空券をとりその週末に出発という、まるで業務のような段取りのよさ。良くもないけど我が家にしてはかなり珍しい速度。
片親独りで心細いだろうというのが第一、医師からのヒアリングが第二、本人の容態確認が第三というような優先順で、いずれも急ぐ必要があるなあという風に想ったから仕方ない。
ともかく帰省初日は母親から事情聴取。いつものことなんだけど、途中脱線して、親戚についての悪態が始まったから、どうせなら面白い話をしろといさめた。が、話す相手が居なかったんだと想う。居ないもんね、実際。
翌日。
投薬治療をスタートしている父親は入院しているということだったのだけど、そんなことはさておき、医師のヒアリング。見るからに大分頼りない内科担当医師。こちらの傷心を先回りしてか、言葉が出にくい。というレベルを超えて、まごついている。不慣れか。
そもそもこっちは暇できてる訳でないし、それに傷心するかどうかはこれから自分で決める。茶を濁したような表現で、半端な理解を得に戻ったわけじゃない。ので、少しイラッときて、聞いておくべき情報、それはたとえば死ぬとしたらいつなのかというようなことや、それから死なないための治療を標榜するのだけどそれはどれくらいの苦痛を伴うことなのかとかいうようなことをいくつも質問し医師の答えを引き出した。
まあ、身体も病の進行も個人差があるから可能性を議論するということになるし、そういう面からも言葉を放ちづらいというのは、判らんでない。けど、命は終わるのが極自然なので、その事実から逃げようとか避けようとか背けようとか、そんな風にはできない。なので、終幕へ向けた終わり方の打ち合わせとして、できるだけ多い情報で、認識をはっきりとしなくてはいけない。そんな感じで、インタビュー形式で、ヒアリングは終えた。無論、専門家の知見から尽くすことができる手だてを最大限とってもらう方針で「よろしくお願いします!」とした。
その後入院中の本人のもとへゆく。
実は、医師に会う前に一度病室を覗きにいったんだけど、そのときは背を向けて寝ていたから、放っておいて打ち合わせに入った。今度は目を覚ましていて、六人部屋の一番手前のベッドの上にあぐらをかいて座っていた。
知るかぎり、病気とは縁遠かった人だからその風情には少々違和感はあった。というか基本、健常にしかうつらなかった。前会ったときより頭が薄くなった気がした。
投薬の影響がどんなか聞くと、まったく問題が無いそう。ただし「頭髪は抜けるぜ」と。ああ、それでか。いや、やっぱちがくね?歳のせいじゃね?
生涯において父親と交わした言葉はともすると数えられる範囲かもしれないと本気でそう思うくらい縁遠い関係だった。そんな関係でもなんだかんだいって久々の顔にテンションがあがったのか(それともただ単に病室が暇だったせいなのか)父親はベッドからすくと立って、医師が居るナースセンターの方へと続く廊下に消えた。戻ってきた手には外泊の許可証があった。
事務的なことができる人格だとは想ってなかったので、意外だった。なんだよ、従来より著しく確りさんじゃねーか、となる。
この後、ほとんどただちに父親は着替えをすませ、ともにタクシーで自宅へ帰宅した。「外泊の際にはマスクを」を看護師から言われて、慌てて病院内の販売機で買ったけど、父親はそれを着けはしなかった。自分もそうしただろうとおもうから、何も言わなかった。
自宅へ送り届けたあとは、普段仕事で世話になっている沖縄在住のデザイナーとご飯のため新都心に行った。生ハムのせのペペロンチーノをごちそうになった。