就寝前、どこでもドアの話をした。
場所こそ移動できないけど『どこでもドア』持ってるかもな・・・とか想う。
たとえばそれは自分の場合「何か事柄についてよく知り上手くなる」という向きで、その扉は開けやすいどこでもドアだった。
だけど「金を儲ける」とか「名誉を得る」とかそういう「向こう側」関しては正視していない、行く先に指定していない部分が多分で、いまだその向こう側へゆくという動機でドアのノブさえ握っていないところがある。性分だもんで、もうこのまま一生、ある種の向こう側に興味を抱くことなく、そのためドアノブに触れることはないのかもしれない。
だけど反対にここではない、今ではない、まだ見ぬ向こう側があるのだとその認識は持っているのだから、たった今、どこでもドアのノブをグイと開けてみても、それはそれで一向構わない。選択の問題だけだとおもう。
ともあれノブに手をかけるかかけないかは自分次第であり、興味関心次第、軽はずみ次第、若気の至り次第。
そんなわけで、この世界には関心の数だけの「向こう側」があって、また自分の中にはどこでもドアがあって、いつでもどこでもそこへ向かうことができる。それは大変素晴らしいことだなと、そうおもう。
結局、向こう側には実のところ大した可能性は無いかもしれない。ともすると望まない行き先でないかもしれない。だけど、可能性が自分の胸先三寸にあるということは、なんとも壮快。
物理的に存在している訳じゃないし、他人に貸してやることもできないものだけど。