病院にはオジイとヤスコおばさんとモリーおじさんが見舞いに現れた。なんとなく病気見物といった風情で「質の悪い見舞い」客とおもったのはオジイのかけていたレイバンのせいだと思いたい。
オーシロさんは特にこれというこだわりも無く以前にタダで貰ったスカイラインに乗って迎えにきてくれた。
小学生の頃によくファミコンで遊んだヨネスが実家の方に宅配を配ってくれたらしい。宛名からの推察で「お元気ですか?」と気遣ってくれたらしい。
父親の希望はマンション経営にある。近場の埋め立て地で建設予定のマンションの話。「もっと早いうちにやっておきたかった」「この家の床の張り替えができるのはそういうもののおかげだ」と。要するに借金を背負うことで代わりに定額の実入りがあるということが今となっては助かるのだというメッセージはよくわかる。
母親の不安は自分が地元に人脈がないということにあるらしい。まあ20年もフラフラと無頼をやってるのだから当然の心配で、大変ありがたい。ありがたいやら情けないやら。
ともあれ、離れてこそいるけれどあちこちの色々な人と同じ時間を暮らしているのだと、おもう。そうおもうにつけ東京の今の暮らしが、なんだか耄けたことようにおもえてくる。
器用貧乏って言葉がある。日々を忙しく過ごしていたとして、有能に働いたとして、いったいそれが何につながるのかということをもうすこし真剣に捉まえたい。結論として忙しすぎてはいけない。ましてや他人のことなどで忙しくてはいけない。そこの場で有能であってもほとほと意味がない。意思も無く自覚も無くそして意味も無く時間と才能を他人に、もっといえば経済的で合理的でそして独善的で強欲な赤の他人に、一生懸命注ぎ込んでいるにすぎない。この無意味な行為は身を削って削って削っているのにすぎない。そこに真の生産はない。消耗と補充がぎりぎりの線でバランスしている、そういう現象が延々と繰り返しているにすぎない。だから他人の要望などにつきあって慢心していてはダメなんだとおもう。自分の要望に忠実でないと、年月がもったいない。
どんな小さなことでも構わないから自分の都合に殉じていればいい。日々のカレンダーを自分の都合で埋めてゆくしか、ほかにない。
自分のことはもちろん、誰一人として内在する漫然としたそして真実でない欲のようなものにかられて焼亡を続けていてはいけないと、東京に戻っておもう。