どういう訳だか、真面目に真摯にがんばってるのに、一向に会社員生活が上手く行かない人は、コーポレートのセンターポジションとうものを理解してみるといいかもしれない、とふと思う。会社員生活をやってくということはたいへんに奇特な生物と上手くゲームをやってくということだと心得るとすこし気持ちが安らぐかもしれない。あるいは、金輪際きっぱりと諦めがつくかもしれない。


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まずもてコーポレート。人々が集まってなにか事をおこなう法人格のこと。この段階では利益集団というわけではないけれどでもおおむね利益集団。人々が集まって、利益を生み出すために何か事業を行う法人格。
出来合いの法人の場合にはすでに人も事業も商品も客もあったりするので判りづらいけど、創業というのは客がないだけじゃなく、商品もまともでないし、まして役員や従業員が不十分ないしゼロであったりする。法人格といいながら一人という状態。集まってねーじゃん、というのは、傍目に見て不安である。市場が不安とか顧客ということもそうだけど普通に親親戚として心配な状態。だから創業間もない会社や、従業員規模の小さな法人にとって、頭数を集める事ができる、とくに有能な頭数をそろえる事が出来るというのは商品よりも大切な事だったりする。仲間を集める力、引力、これがコーポレートの礎といえなくもない。まあ、なんか適当な出会いと適当な求人サービスとコネをつかって一人二人と関係者を増やして、それでもって、なにか体裁というか信頼感を醸成するのだけど。そういう風にして、こんど信頼だの期待だのが醸成されるようになるとお金が集まりやすくなる。具体的には借りやすくなる。そうでない場合賭けてもらいやすくなる。そうやって商品・人・客の間をぐるぐるとスパイラルしながら組織の拡大最生産をやってゆく。
仲間を集める、お客をあつめる、商品開発力を集め、またお金をあつめ、羨望を集め、期待を集める。そういうということ。このコーポレートのセンターにある人物って、いったい何なんだろうか。

人物像としては少々リア充気味というか、リア充そのものというか、リア充の中のリア充だと思っていい。まったく無根拠な思い込みで突っかけて、人に迷惑をかけるタイプ、それでも反省しないで、また別のテーマで同じように突っかけてくるような、そんなタイプを空想してくれたらいい。小学校のとき居たアイツのことだ。
もう少し空想に肉付けするならありがちだけど、親が資産家。ゆえにもちろん人脈もある。このため何を失敗しても結論は丸く収まるするという生育環境がある。往々そうだけどもし頭が悪く成績が悪くても、素行が悪く近隣住民のはなつまみでも、未成年ながら法に触れるような万引き、カツアゲ、窃盗、暴行をしようともそれによって拘置されても別段そこに反省の機会はない。与えられる学びはむしろ一般とは逆。俗にいう武勇伝の積み重ね。何をしても問題にならないということの繰り返しが、間欠泉のように吹き出す自信の泉というものを与える。トラブルの数だけ間欠泉の数は増えてゆく。これが本人に内在する世の中理解の土台となる。とかなんとかそんな人物像。

この土台の上で、親も、爺や婆やも、友達も、お手伝いも、親父の会社の従業員も、すべてが自分を守り自分を豊かにするためにそこに存在すると確信を日々強めて幼少の普段を暮らす。
家庭に取り巻きの大人が多い、そういう別の社会に既に身を浸しているということが大きく作用して、学校という組織は大した比重をしめない。授業もテストも先生もどうということはない。遅刻がどうとか休みがどうということも問題じゃない。遠足や修学旅行や部活動もどうでもいい。進学だってどうでもいいし、正直に言って同級生も学友も知的レベルが低くてつきあっていられない。楽しみはといえば多少の悪戯。悪戯で少々波風を起こして、注目を浴びる機会があるならそれは率先するという感じ。
悪戯をし、注目を集め、快感を得ることくらいしかない社会で、大事なことはオーディエンスの人数であることを知る。親から小説から漫画から教わる友情というものを背負わない。彼にとって友達は使用・利用するべき踏み台でしかない。自分が最大数を踏む側であれば自分が一番高いところへ行けるというルールがそこにある。だからたくさんの数を踏むことを心がける。なにはさておきまず数。踏み台の連絡先は既に多数登録してある。それに家庭の父親のもいれたら飛躍的に頼もしくなる。
その上で幾つかの失敗を繰り返しながら、いかに「何度も」踏むか、そのことに心を尽くすようになる。踏む技術が熟達してくると、踏まれる側にとってこっぴどい想いをさせて二度と近寄らないような致命的な踏み方は避ける。踏まれる側が逃げてゆかないギリギリの踏み方に拘りをもつ。またこの拘りを人前で自慢してみせたりもする。
センターポジションとしてのオレは(ワタシは)凄いだろうという、その点の、承認欲求から自慢してしまう。これは未熟さの失態だけど、大したダメージにはならないこともまた知る。嫌なヤツでいいんだ、と知る。自分ならば自慢や嫌みも、耳にしたものの寛容によって笑いで処理されると学習する。どうせ許されるんだろうとか、彼奴等は間抜けだからそもそも気がついていないかのどちらかであると気づき、いっそう大胆に嫌みを表に出すようにもなる。青年期。

また手持ちのトモダチの登録件数 20,000 件。これを 30,000 件にするために、すこしおどけたような、奔放なようなキャラクターを演じてみせたり、定型的な面白いことを言って聞かせたりする。もし男性が相手ならくだらない下ネタを惜しまない。これは俗っぽくあればあるだけ評判があがるということを知っている。もし女性が相手なら容姿に関して持ち上げることを惜しまない。どちらにせよそれが最大公約数のネタであることをとうの昔に習得している。数を最大かする取り組みとして、また自信の裏付けとして、人の輪を好み、パーティーの開催なり参加を好む。
でも意外と、そういう場で小銭を出し惜しんでしまう意外な癖を持っていたりもする。そのため取り巻き連中に、執拗な金への執着が透けて見えてしまう。これは軽い食事時にも「払っといて」と小銭を人から借りたりするシーンでも、散見される。
そういうやり取りを、ちょっと格好いいと思っている(かそう思い込もうとしている)節もある。し、それだけじゃなく「オマエ等ふだん誰のおかげで得してるんだ?」という点の確かめの意味も含んで探りを入れる行為でもありまた、「(コイツは)どの程度踏みつけにできるか」を確かめる意味もある。ニホンザルのするマウンティングの習性と同じような意味でそれをする。結局少しだけ自分の中に残してる不安を払拭したいための行為で、これは将来的にもずっと続くことになる。
またここで借りた金の返済は、往々にして、ずーっと先の事になる。先になるのは、無利子で借りた金を出来るだけ長く保有すると差益分で得が出るというような金融屋気取りの計算を内心で働かせてのことで、あまりにも小さい損得勘定なのだけど、あまりに小さいがため日常のコミュニケーションの範疇と信じられているとたかをくくっている。が、バレる方面にはバレていたりする。がこれもまた、バレていても大したダメージではないことを既に学習済み。問題ない。

そんな人物像がコーポレートの真ん中には、居る。

かたや、だ。コーポレートのセンターにはいない非リア充はといえば、太宰治とか国語教育とかのために、早くに「恥」や「思いやり」や「行間」というものを覚え、また内省というものを免れない。この種の謙虚な人々は、中身の無い(と指摘されてしまいそうな)空疎な生き方に耐えられない。非常に弱いメンタルを持つ。から、生き方についてこだわりをもって、プロセスを選んでしまう。中身の伴った生き方と、中身によって牽引され、中身によって導かれる到達点を生きようとする。この世には評価者などというものはいない。頭では判っているというのに、自ら「分相応」を見極めようとし、また中身ある自分へ「誰か」からの評価を内心待っていたりする。自分のスキルならこの程度のお給料、というような誠に殊勝な自虐をする。自虐の果て、生の諦めのきっかけを自分の中に見いだそうとする。自分を探す旅に出かける。目的もなく海外へ憧れる。

コーポレートの中心にはない性質の慎み深い人々ですら、ひとたび世に出てしまえば、リア充が猛威を奮う銭儲け組織の一員、一因となる。
社会を知れば知るほど、まったく不案内なリア充階段を、率先して昇ろうとする。この階段を昇るための精神の修行に入る。入社数年間。

これもまたひとつ外部環境に影響されやすい殊勝さ故のことで、本質的にズレている。リア充という生き物は生まれであって、研鑽の結果ではない。むしろ井の中に居座り続ける精神的愚鈍の結果だ。

にもかかわらず目指す彼らは、唐突に高額な時計を填めてみるとか、溜まったマイルをプライドの礎としてみるとか、チェーン系喫茶店アルバイトに対して上からものを言うとか、駅員へのあたりがキツいとか。色んなタイプのリア充風邪症状を各所で示す。
でもこのあたり生来のリア充とは違って、やっぱりピントがずれてるので用をなさない。得につながっていない。

生来のが重点を置いているのは「得か損か」。だからまるきり得しないところでバランスの「バ」とか羞恥心の「し」をいくら捨ててみせても、一向、損を被るだけなのだ。だけど、道筋の見えなさと悔しさ、ストレス、真面目さなどが悪い意味でバネになってしまい、愚行を慎む事ができない。行為と目的のピンがあってないというそのことがリア充修行者にはいまひとつ判ってない。形而上的さるまねでしかない。が、いっそう厄介なことに、これらのさるまね者が、無能故に無害かと言えばそうでもなく、感化(ダマ)されやすく、なびきやすく、この上なく利用されやすく、またこっぴどい踏みつけを自分への期待と勘違いするマゾヒスティックな倒錯を持つこのタイプこそが、従業員の枠組みを免れない範囲でコーポレートのセンターにあるものの都合(尋常でなく説明もつかない酷い踏みつけ)の代弁者として選任され、部長や課長職につくので、目も当てられない酷い混乱・不和・内戦をもたらすようになる。そして、この内戦の結果がどちらに転ぼうが、コーポレートのセンターポジションにとっては戦犯の汚名を一任できる大変便利な捨て駒である事に気づくのはずーっと先の事になる。
よくある「無能なあの人がなぜ上司に・・・?」というのはこういう理屈だ。そんなことについて疑問に思っているなんて呑気をしていてはいけない。まして彼のようであろうとするなど、ナンセンスの極みだ。他人のおこぼれに預かる以外に術を持たない無能だからこそ、他人の利益に徹底的に忠実で、そういう底抜けの賎しさを備えた生き物にしか演じきれない役というのが、世の中にはある。コーポレートのセンターはそういう事から良く理解をしていて利用している。ただそれだけのことだ。

資本を主義とする資本主義、それを下支えするためにあるコーポレートというのは、仕立ての段階から、デザインの段階から、設計の段階から、そういう風に運命付けられているので、そういうのが嫌いな殊勝なみなさんはもう他所の金儲けのためにあるコーポレートのセンターポジションとはつきあわない人生をお勧めしたい。

この資本主義の時代に他所のセンターポジションと関わらない生き方を開拓するのは、それは、西部劇やゴールドラッシュ時代の開拓精神というものと同じだと、自らを運命付ける判断をする勇気を持つべきだ。小規模で自由で無数の新しいセンターポジションのあり方と其れ等を許容する社会のあり方が求められる。

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