春闘なんだそうである。
争点がどこにあるってそりゃあもう賃金なんだけど、その査定基準に影響を占める年功序列がなくなる方向に行くとかいかないとか。この件、言われ始めて何年目だとか、色々あるんだけど。議論の方角に少し違和感を覚えることがある。
「年功序列」がなくなると「能力・成果主義」にルールがシフトするということがあたかも前提のようにして話されていること。
違和感の内訳には2つあって、まず単に年功序列を突き崩しただけでは「能力・成果主義」にはならない、というか至る事ができない。その評価尺度を整えて評価する土台作りができてないから。だからさしあたっては「年功序列」解除後は、もっとずっとプリミティブな別のルールがあてがわれることになるとおもう。それが何かと想像するに、「図々しさ主義」のようなもの。
一時、空気を読む・読まない、あるいは読めない方がより偉い/読めた方が偉いという類いの議論もあったけど、そこでいえば「空気を読まない方」がより有利となるそういうプリミティブなルールのもとで皆が競い合うことになる。図々しいやつ、知識のないヤツ、経験のないやつ、既存のビジネスマナーを知らないやつ、嘘つき、騙し、すべて良く言えば既成概念に縛られずなんでもやってしまう人、悪く言えばかなりアレな人々がグング上位者になる。
そういう(社会とまでは言わずとも)会社が到来する。そのことを計算に入れて「脱」年功序列を語っているのがいったい何割いるのかなという疑問。その事を計算に入れたときに、そのルールで「勝てる」と思っているのだとしたら大間違いだ。そもそもこの近辺のことを考えているヤツなどいたって常識人、小物。図々しいだけのやつに歯が立つわけがない。馬鹿の壁というやつ。従来の年功序列ならば先輩がしかってくれてた図々しいヤツの傍若無人を封殺する年長者も既に居ない。絶望だ。
そしてもうひとつ。そういった図々しさ原理主義のプリミティブな状態を抜け出し無事に能力主義/成果主義にたどり着く事ができたとして、そのときに、勝てる自信はあるのかいということ。基本的に9割以上は負けだ。5割じゃなく9割。そして勝つ1割の内訳も決まってる。生まれと人脈が五分。残りの五分がもうけ話に立ち会う事が出来る運。つまり生まれか運に任せた社会のなかでほとんどの人間はやってゆけないということ。
それでもなお年功序列をやめたいのかな。なんだかよくわからないな。