仕事の話です。コーポレートサイトの刷新作業を終え無事ともいえないながらグランドオープンにこぎつけました。もともとが数百ページに満たない小規模なウェブサイトだったので、設計的・システム的・情報整理的な最適化計画の面では特段の困難な無く。しかし、本件を通じて人ってほんと尊重していいことないなと思いを深めました。独り反省会。
よく聞くような苦労フレーズはざっと次の掲げる通り。
管理職の無知。センスはそれぞれ。意思決定者に説得は通じない。外注パートナーとの不信頼関係。未知のシステムとトラブル。マスの理論、紙のプライド、宣伝意図と広報意図と。有事に関係者が潮のように引くこと。戦略がない・予算がない・計画がない・人がない。変化を望む声・変化を嫌う人。聞きかじった程度のSEO論。俺はやってる程度のソーシャル推進の声。などなど。
これらとは想定内として今回心底身に染みた、組織的な病(末期)の現実はこれ。
社内関係者全員の臆病風。外部協力者の頭を使う方角のズレ。
ここが公式ならばまず冒頭に謝辞を入れるところですが、なにぶんここはパーソナル。なにぶん一仕事を終え、一息ついて、思い返す場。そのときにまず頭をよぎるのが「大変」だったもんで、、、ネガティブご容赦ください。
一応触れておくと、全体感としては充実はします。いわゆる充実「感」とか達成「感」というのは感じない質なので「感」に関してはゼロなんですが、ただ知らないことを調べる、出来ないことをする、解らないことを解決する、不和を調整する、人の考えを探る、決定して指示をする、指示の誤りを正す、誤解を解く、バトる、解るように説くなどなど。普段なら生じない沢山のことがら起こり、普段なら行かない場所へ行き、運動量が増え、精神が研ぎ澄まされ、中身が詰まります。全体を進めるという一事に関して、備えておくべき必要な割り切りが胸中に確立してきます。
その中でも今回の大収穫は、関係する全ての人は例えどれほど有能、優秀、前向きに見えたとしても、自主性・主体性を望んではいけないということ。
申し合わせたわけでもないはずですが不思議なもので、内・外問わず関係者のほぼ全員が、リスクを避けます。そこに関しての足並みはほぼ一致します。とにかくリスクを避ける話ばかりで埋め尽くされます。刷新の話題のなかに素早く自分と関連するリスクを察知し、このリスクを回避するため、方角の変更を促してきます。まあ面倒を被りたくない、巻き込まれてシゴトを増やしたくない、何かの変更とそのための悪化を自分のせいにされたくない。原因はいろいろです。あまりに端的かもしれませんが、おしなべて臆病で、幼稚です。大の大人がみっともない。そう感じられます。
とはいえ好き・嫌いで相手を決めてられないのが仕事上の関係者なので、苦虫かみつぶす想いですが、徹して付き合うことになります。ときに、子供をなだめるように、ときに叱るように、そしてときに黙殺して。特に費用を支払って付き合ってもらう外部パートナーに関しては、プロジェクトのゴールを共有して、自分事においてもらうように促し、自主的に考えをもってもらい、同じ目線でプロジェクトの成功を目指せるように、また主体的にリスクと責任を取って仕事に挑むようにと促します。が、今回は残念ながら、難しかった。子供扱いするより他に打てる手立てが無かった。相手が 30代、40代でも、50代、60代でも関係なく子供扱い。
内外を問わずですが、主体的・自主的に仕事をしたことが「まだ」ない大人たち、それがサラリーマンです。サラリーマンという生き物である以上は、扶養家族と何ら違いません。養われている状態の中で最良であろうとすることは、どんなに張り切って見せても、所詮ちょっと確りして自己演出したい気分の長男・長女程度でしかありません。
閑話休題。今時分、勤め先が決まってほっとしてたり、先の人生に絶望してたりするのが、就活を終えた大学生なのかとおもいます。おそらく、面接をして、質問され、内容をののしられ、圧迫され、お祈りを受け取るばかり。それが100回とか。結果、疎外感を覚えたり、大人の社会は汚いなと感じる局面がたびたびあったかなあとか、おもいます。もしもその大人の社会に受け入れられたい、就職したい、と願うのなら、そしてもし汚い社会はいけない・綺麗な社会であれと願うなら、そのときに選べる選択は一つしかありません。
異臭を放つ黒くドロドロの汚水に自らが身を浸す諦めをもつことと、泥水の中でヘドロを掻いて雪解け水でも引いて清流にしてみせることを自らがやるという腹を決めることです。もしもですがまだ「誰かが綺麗にするべき」とか「みんなが綺麗にすべき」とか「過去の人のやったことに自分は責任がない」と考えているのなら養われている子供の世界の住人だと自覚を持つほうが適切です。
サラリーマンの仕事術に話を戻します。残念なことに、養われている環境に身を浸して、自主的・能動的に、完成度のある仕事を目指す大人はごくごく一握りしかいません。会社で働く大人の大半は就活中のお祈りを受け取っている大学生と質的になにも違いがありません。
もしほんの少し違うところを挙げるとすれば、大人の社会の中での身のこなしに、それはたとえば名刺交換するとか、早めに会議の資料を綴るだとか、稟議書を書くだとか、始末書を書くだとか、打刻をするだとか、日経新聞を購読してみせるとか、そういう形而上的なことにほんの少し長けているというのに過ぎません。俗に言う本当は別に要らない仕事に、です。
今回の件で、もういい加減、尊重し期待を繋ごうとするのをやめる諦めがついたのは、私にとっては幸運でした。もう2週間だけ、確信を持って行動に移すのが速ければと悔やまれます。
プロジェクトが終盤戦に至ったころ。各員の動きの悪さ、反応のズレ、まごつき、幾度となく放った説明メールのカーボンコピーの山。そしてプロジェクトマネジャーの口から「スコープ外でした」の言葉が放たれた瞬間。ようやく私は人を尊重し信頼する居心地の良いもう一つの世界から目を覚ましました。目を覚ますとカプセルに格納されケーブルに繋がれ電源として無為に搾取されているだけの似た顔つきの関係者が整列して横たわるだけの光景に遭遇しました。それは絶望的な光景でした。
分厚い調査資料、立派そうな提案書、頼もしそうな面々、契約書、スケジュール表、人格と約束。そういった類いの全てのものへ、思慮と信頼と尊ぶ気持ちを持たず、どこまでもドライな心持ちで、事態を見つめて淡々と機械のように反応しつづけていれば、きっともっとずっと優れた結果を生んでいたことだろうと思います。反対にもしも居心地の良い方の世界から覚めることができなければ、きっと今もまだオープンを迎えることはできていないはずです。
たとえば「計画をした」といった人は、極薄い内容のレイアウトデザインを上げくるし、ちょっとしたコピーを起こすこともできないし、スケジュールを押すし、それにスコープ外ということまで言いますし、あげく恥知らずにも追加予算を請求までしてきます。
「計画書」の定義付けについて一人ひとりの言質を取って回るほど私は暇ではありませんが、これから先、言質を取って回ることも自分のタスクに入れることになります。
最悪のダメージ、大きなリスクを回避するための大きな負担と責任の分担。多少のダメージ、小さなリスクをどこで担保するかの分散の見極めと交渉。少々の痛みを伴うほんの少し残酷な判断をして、それをそれぞれに割り振って事を進めてゆくしか現実の世界には方法が無いのですが、伴う自分の痛みと相手の痛みが、生きてるリアルを証明するようで、悪くありません。