「自信」が何に支えを得るか。「期待する手応え」に支えを得る。とおもう。
期待する手応えの回数を積み重ねれば重ねるほど自信を得ることになるし、期待する手応えを知らなければ、あるいは期待と違う手応えが続けば、自信を失い続け、どうしても臆病気味になる。とおもう。


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特殊ケースを除きごく一般的な大人の人の自信のあり方についていえば、概ね「身辺の人の幸せの手応え」によって支えられる。とおもう。特殊というのはマラソンランナーやアスリートのように自己実現に強い興味関心を寄せて自己実現=期待する手応えという相手が居ない期待の構図。これも十二分に自信を生む活動としてあり得るのだけれど、ごく一般的な大人は、職業人としても地域住民としても家庭人としても、人と人の間で暮らしているものなので、「身辺の人の幸せそうな様子」が欲しい手応えとなる。とおもう。

幾分チープな言い方だけど身辺の人等が「彼がいてよかった」「彼女といると楽しい」「あいつに救われた」というようなフィードバックを感じる機会をたくさん得るということが望ましい。もっと直接的に言えば「自分と居る時間、彼は、幸せそうに『見える』」と信じることができるチャンスがたくさん得られるのがいい。

自らが期待する手応えの獲得に向けて、自分の頭で何か企てを想って、試しに能動的に企てを実行してみて、何個のポジティブな「身辺の人たちの幸せの手応え」を経験することができるか。これがそのまま「自信」になる。とおもう。

そういうふうにして身辺の人を幸せに「できる」基礎的条件がどんなかというと、まず本人が自分の足で立ってることが最低限。とおもう。

まだ自分の足で立ててない人というのは単純に見てて不安だし、どっちかというと目を配「られる」側の人なわけで。そこに自信もへったくれもない。自立してない人は急いで自信云々するんではなく、まず、自力で起立することに集中するのが潔い。とおもう。

もしも自分をしっかり管理することなく土俵に上がったとして、面倒臭がりさんや、臆病さん、ケチんぼさん、言い訳さん、ズボラさん、後でやるさん、だと土俵上の勝負に勝つことは少ない。したがって、成功の数が足らなくないだけじゃなく失敗の数が増えてきて結果どちらかというと負越し、自信を喪失することになる。とおもう。
なのでまず自立・自己管理がきちんと整っていて、その上で余力があり、そしてこの余力を自分以外の人たちに大いに振舞って、そして自信が得られる。という手順がよいのではないか。など。

ちなみに自立は、経済的なことに限定せずに、自らを魅力的に養うことが相当だとおもう。自分を養う・保つ・伸ばすのは、誰のためでもなく純粋に自分が自分のために注ぐ日々の堅実な勤め。とおもう。
仕事とか日銭はもちろんのこととして、その他に、自分の欲しいものを得る、自分に必要なものを自分で判断してその獲得に積極的、能動的に動くこと。たとえばご飯も、趣味も、習い事も、美容も、健康も、交友も、住まいも、スキルも、見識も、トークも。これをなんとかして回転させ続けて、自分の半径を大きくしてゆく
。この一連の規則性みたいなのが自律。単に他人の手を借りない、他人さまに迷惑をかけてないといったような減点方式ではなくて果てのない自己実現の連続。連続することもまた「律」の一部ということになる。とおもう。

そんなわけで、まず自分の足で立った(またそのことをしっかり示した)上で、それより先、身辺の人の幸せへ目配りができて、不足なところがあればそれを補うために自分の余力を惜しまず、面倒がらずに注ぎこむ、影響を与え、期待する手応えを得ること。これが期待する手応えのために必要な最小のアクション。このアクションをいくつ実行できるか、がここでの基礎的なルール。

ただ。通常の大人がどうかというと、こんなふうに意識的に「自信」を取りに行くことは少ない。とおもう。どの人もこの世に生まれてから最初の10数年間はまったくただそこにいるだけで身辺を幸せに包むことができた存在なんであって、自信を意識や工夫や考えで掴むものだとは誰しも最初は思ってないわけで。子供のころに感じた万能感、満たされていた自信を、大人をやってくにつれて、日に日に削るようにして身を細らせて生きている。そういうものだ。と思う。特別でもダメでもない。ごく普通。

往々、子供時代の自信の根源というものは、その身体性に起因する。子供が大人を喜ばすというのは本人に考えあってのことではない。ただひたすら子供であること、泣くことや笑うこと這うことや立つことまたは転ぶこと、寝ること、吐くこと、それらの身体性そのものが、身辺の者へ期待する反応を呼び起こし、これが本人の自信の糧になる。こんなの、とんでもない特別な状態。

それじゃあ、大人の場合はどうか。転んだり、吐いたり、そんなことしたら周囲の人の手を煩わせるに決まってるし、それじゃ誰も幸せにはできない。大げさに言えば身体性とうのはそういうところがある。大人は子供とは違う。求められる行為、期待される手応えに違いがある。

大人の身体性はなにかというと、男だったり女だったり、大人らしかったり、立派だったりタフだったりすること。仮に男としての反応を期待するのならまず間違いなく男らしい身体性が必要とされる。そのうえで男らしい思考や心配りをプラスしてゆくことになる。女性の場合もしかり。親もしかり、部下も上長も役員もしかり。期待する反応を得るために、身体性も自律も心配りも、自分の余力でなんとか間に合わせるしかない。

あくまでも仮にということだけど、ものすごく仕事ができるのに、そして本人が出世を望んでいるのに、もし一向に役職が上がらない人(あなた)がいたならあなたは「期待する反応」を得られていないことになる。つまり自信を無くす機会にさらされている。なかなか認めづらいことだけど、これが正しい作用だとおもうようにするといい。果たして周囲の人には、彼を(あなたを)上司にしたくない、その理由がある可能性を考えてみなくてはならない。

業務外という範囲がありはしないだろうか、皆と飲みにいってるだろうか?朗らかに話せてるだろうか?勇気を与えることができてるか?、また業務内で若手や新人を(ときに上司を)追い込みすぎていやしないか?同期を見下してはいないだろうか? そういった(自分が意識していなかったような)ことへ心を配らなくては解決の糸口は見つけられない。心を配って、そこに何がしか可能性があったなら、そのときは考えを一個づつ確実に改めて、それを行動に移し、周囲へ示して、安心や好感を与える以外に解決の糸口などありはしない。期待する反応も、もちろん自信も得られない。簡単に言えば「仕事ができる『だけ』の人」はそれほど求められていないという気づきを得なくてはいけないし、気づきの向こう側へ自分を推し進める脚力が必要になる。
この脚力は、間柄によっては愛であったり、博愛であったり、情熱であったり呼ばれるもので、一方的にシンドい道へ進み、一見すると支払う必要のないエネルギーを支払うことだったりする。無償の、といわれる所以でもあるが、実際には傍目にみると無償なだけで、当人にとっては変えがたい「期待する反応」を得るためのごく当然の対価であったりする。親-子の関係にはよくある。

でも脚力を惜しんでしまって単に「自信をなくした・・・」といって立ち止まってるのでは自律が機能していないといえる。とおもう。そりゃたまに、僅かの期間立ち止まってみるのはバネになることもあるけど、「期待する手応え」が得られなかったことによって臆病風を吹かせて立ちすくんでいては、ずーっとそこ止まりの人になってしまう。だから、素朴に相手を知ることをまたゼロから始めるしかない。

もうひとつ注意したいのが「本当に(自信を得たいテーマは)それか?」ということ。背一杯仕事して、職場の仲間に好かれても、それでも自分が満たされないことはままある。その時には対象者を間違っていやしないか疑ってみることが必要だ。作用・反作用的に、喪失した自信を挽回するために力むその「相手」を誤ってしまうと色々と自分がギクシャクしてしまうようになる。本当に大切な場所、人が何なのか冷静に考えてから反作用を行うことがよい。とおもう。
そしてもうひとつ。期待する反応へむけた行動の「内容」が、独りよがりでないか、勘違いでないか、深くふかく相手を洞察することが必要になる。とおもう。
場所を間違い、内容を間違うと、自信を得る活動は、長期的な意味でたいへん残念なことになる。とおもう。

長々なってしまったけど、まとめると、まずは今日自分で決めたできること・やるべきことをしっかりとやってみる!自分の有様をめいっぱい(もしくは余裕を持って)楽しめる自分になる!自分のことだけなら十二分にお釣りがくる状態を目指す、というのではどうだろうか。とおもう。