愛想のない、想いのない冷たい人だと思われることはしょっちゅうで慣れっこだけど、その実、想いはある。ほとんどの場合表沙汰にしないというだけのことだ。
新しくできた家族のことをずっと大事にしたいと想う。実家にある家族のことを良く思っていて大事にしたいと想う。よくしてくれる皆へ報いることができる自分になりたいなと想う。
当然そういった想いがあるのだけど、残念ながらそれぞれの場所で想いを伝えることについては完全に上手くいっていない。10の想いがあって、9の行動をして、1つ行動が足りないような状況をよく引き起こしてしまう。また、その1つ行動が足りないことについてものすごく残念がられてしまう。大げさにいえばだけど、1足りないがために想いが全くない人でなしである、見做されるといった風。個人的には、1足りないって結構よくあることだとおもうし僕自身は誰かが10/10の行動をできていないからといって責めるようなことは絶対にしないんだけど、でもそうなってしまう。
そういったことがしょっちゅう起こるので、今回ばかりはその根のめぐり方を捕まえ、考えを改めた。そもそも最初から10の想いでは全く足りていません、100の想いにしてください。そういうことなんだろうなと、今回は理解した。どこからでもいい、どこかから残りの90をかき集めて、例えば何か別のものへの想いを捨てて、100の想いにしてくれよってそういう要望だと理解をした。全人格を注がないと認めない、そういう状況理解に切り替えた。
考えてみれば家と職場となく「長」のつく人たちは、ずっとそのように求められてきただろうし、また現にそうらしく振る舞ってきただろう。ただそれだけのことだ。個を捨て、感情を捨て、関係するあらゆる人のあらゆる感情と都合が押し寄せる渦に立ち溺れて、事柄の奴隷になり、死なずに生きろということなんだろうな。これは。
この間、僕は人をリードしない方だし、人へアピールをしない方だし、押し付けがましいことはしない方だとおもう。それはあまり強制されたくないし、アピールされたくないし、押し付けられたくないからだとおもう。自由を好んでいるし誰もが自由を謳歌して欲しい。個性と挑戦と失敗と多様さを好んでいるし関わる人々が皆が思い思いであることに寛容でいたかった。しかしそれらは僕個人の価値観の押し付けだったのかもしれない。その結果として、冷たいヤツだとか何を考えているかわからないヤツだとか思われることも多いかもしれない。また、相手には結果で示そう、結果が伴わない以上は口上だけで想いを述べるのは止そうと考えすぎている部分があるかもしれない。そういう点を是正する必要があるということなんだと、解釈を切り替える。
いずれにしても正の想いがあるにもかかわらず負の人だと真逆の反応を得るのは不本意だし、度々どうしていいのか混乱してしまう。けど。はい。です。