完璧主義は長続きしない。辛い時が続き、そのうちボロが出るから。
ボロというのは苦手なことやできないこと、不満を抱くようになること。そういう際に居て完璧を演じ続けるのはニンゲン難しい。これは事実真実の類ではなく、あくまでも彼の瞳にはそういう風に映っているということ。だからさらけ出すことやダメでも可愛がられるやつになることをお勧めするのだそう。そうやって眺めると、案外、彼はその時本音で親身に寄り添ったかもしれない。が、と言ってる彼自身は可愛いやつではないから不思議ではある。
事業部について。旧来の紙媒体は衰退の一途をたどって早10年。その要因の一つはメーンクライアント等によるPR自主規制。というが、広い視野で眺めればデジタル化インターネット化という時代の変遷に取り残されたというのにすぎない。どちらのタイプですかと問われればキリギリスであったということだ。さて細々あるデジタル部としてはx億円しか売っていない。これなら受託制作事業者の方がまだよほど売り上げを持っていると言っていい。販売の効率がすこぶる悪いと言っていい。背景にあるのは商品魅力不足。それから売り方。また認知に乏しいこと。おしなべていえば市場側からほぼ求められていない状態にあるということ。どうしてこうなのかといえば、確たることは言えないけど、やはり井の中の蛙、特定領域において知られているということにおごってしまって、一つ二つ上の水準からメタ認知的に自らを評価することを怠ってしまったため、というところに思える。つまりどういうわけだか「当社はよく知られ、魅力を放っており、数多くのメディアにおいて優れている」と思い込んでしまったという幸せな歳月があったと言うことと思う。
組織チームとして眺めた時には、売れていない割にメンバはいそがしがる。なぜか。一つの可能性は著しく能力が足りていない。もう一つの可能性は著しく無駄な作業に当たっている。実際のところはその両方が絶妙に配合された現場環境。水面下で行き交う不平不満の量がものすごく多いのもよく分からない現象の一つ。それでいてきちんと定時には帰っているのだから理解に苦しむ。
全く理解しづらいこの状況に会えて原因を充てがうとするなら、目標と組織化と計画が無いことかなと思う。所謂マネジメントがない。だからお互いに顔を見合わせて、苦しいね忙しいね難しいね酷いね、本当はもっと素晴らしい価値があるのにねと言い合って、それで仕舞い。
さてマネジャー。メディア業務、デジタル業務の経験がない。実務実業を行うということができない。なので勿論、部下仲間の業務負荷、業務難易度が見通せない。つまりマネジャー自身が仲間に他部署に何を依頼しているか分からない。自分にとって嫌そうなこと、面倒そうなこと、そういう用事と付帯する責任をパックして部下へ「なすりつけ」するのがデイリーワークと成っている。生来楽天的な質なのでなおさら、シビアさに欠ける。簡単には太鼓持ちタイプということで社会的機能を果たしている。
一方頭脳の明晰なマネジャーもある。こちらもやはりメディア経験なく、デジタル経験がなく、その上で聡明な頭脳を備える。無経験と明晰な頭が合わさった時に起こる事は単に馬鹿であるという以上の悲劇を生むことがあるのだと身を以て知ることになる。生み出される話が机上を出ない。超高集積CPUを持ってして超ハイスピードでソリティアが行われる。ありったけの知識で、盤上のルールを理解し、フレームワークを駆使し、ロジックを並べ、推察を重ねて、議論の場を制して、高らかな勝ち鬨を上げる。その結果として生み出され定着を余儀なくした「べき論」により現場のアイデア、能動性、操作感、希望、夢といったワクワクの材料が消失し、有能な営業マンらが退職を志願し、また売上利益の復調は繰り延べとなる。長としては、論に長けるというのもなんとも不便であることだと思う。
遂に経営。やはり経営としてもこの業界は初めての取り組みとなる。幸いにしてバイタリティにあふれ優秀な経営者が付いている。優秀であるが故に、また売上面での復調が見えてこないだけに、事業の現場に大いに参画し、大いに意見する。その関わりの内容も的を射ており、恐れ入るところばかりだ。にもかかわらず、全体として好転した気配と実感と事実は程遠く感じられる。なぜなのか。
仮にここに木造建築一筋日本家屋の建築家がいる。建築家の建造物の質の高さに目をつけて、これの魅力をより高めて市場に陳列したい経営者がいるとする。最初は建築家の建造物をほぼそのままPRしたら売れると思ったがそうでもなかった。なぜなのか考える。市場側は、無粋ではあっても狭小高層コンクリート建築物の方がニーズとして強いと知った。そうかなるほど。先日出資した建築家にコンクリートを使わせればいいんだ。彼には現代的な材料、技法をマスターしてもらおう。そのための文献、競合他社情報、その他の刺激剤を投下しよう。彼の気持ちを洋式建築へ転換させよう。もともと素地があるのだからきっと彼にとって難しいことじゃないだろう!また危機を救った出資者である私がこう思ってるのだから彼だって自ら率先して新しい建築を学んでくれるだろう。さらに市場で受けがいいように勝手にアレンジもしてくれるはずだ。庭園か、噴水か、斜光か、壁面か、その辺かな。庭師なんて流行らない。そうやって洋式化して行くことに不満のようなものは生まれないはずだ。日本家屋をやめろとは言っていないし、それに何より売上が増えるのだから。
そんな模様に従って、断片的な正義と、合理と、幸福のイメージとの継接ぎが、長年をかけて有機的に根を張って生きてきたある一つの生き物、体系を破壊するのは、それほど難しいことではないのかもしれない。
では、どうであればいいだろう。あくまで私個人にとって。