人が辞めるのは寂しい。


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寂しい。特に志に近いものを感じる人の場合には。そしてそれが2名同時であったりするとなおさらである。出て行く人は、出て行けるから、出て行く道を選ぶのである。出ていかない人は、出ていけないから、出て行かないのである。翻っていえば、出て行けるということは、自立的に仕事や業務に当たってきた証であるので、素晴らしい戦果である。イチローはどのチームでもイチローをやれる。

きけば、極少人数で相互に打ち解けるための会のセッティングを、何をトチ狂ったか、大勢で囲み説き伏せるスタンスを取ったらしい。そのことが本人の最期の踏ん切りを直接的に促してしまったのだそうで、些細な事であればこそ人間対人間の信頼と約束を反故にした、ほとほとナンセンスな顛末である。文字通り最期の最期まで機微の捉えかたがすれ違ってしまってて、結果として本心同士が触れあい交わる事が一度だって叶わなかったのだなと、心底残念に思う。花火の散るその一瞬くらいの束の間、ものの一、二時間程、最期くらいはお互いの立場、都合、事情、願い、想いをザラと出し合って眺め合って笑いあって止むをえぬ立場を知り合いそうして理解し合えなかったものなのだろうか。

でもまあ、世の中は往々にしてそんなもんであるとも思う。というか、そんなもんであると知っている。分かりあいたくないのである。表側では涼しい顔をしつつ心底では「『あいつ』のこと『など』」と沸騰しつつ、見下げつつ、憎しみつつ、蔑みつつ、人と人は同じ職場に暮らしているのであるからして。

時に、この際に至って、親しげに話しかけてくる先述のシチュエーションの生みの親であり無理解と蔑みと恐怖に支配され情緒不安定の彼は「精神的に参っていて何度も辞めたいと思う」と私にこぼした。
彼のような心とあまり触れあいたくない、触れ合っても事態は前進しそうもない、だからこそ組織を去りたいと思う、そういった色合いが濃厚にある今回の退職劇なのだが・・・(オマエが言うかー)と私は思う。事に向き合ってかりそめにでも自分が間違っていることを疑ってみない、自分が失った貴重を計ろうとしない精神構造というのは、罪深くもあり、同時に知性の欠落が過ぎてもはや赤ん坊のように罪がないようにも思えて、どっちれあれなんともやるせない。知性とはなんのためにあるのだろう。