まだまだ地震と津波による被害の惨状もままならない状況にあり、また福島原発についても全く予断を許さない状況がついづいていますが、ぽつぽつと原子力発電について今後どのように取り扱ってゆくんだという話題が聞かれるようになりました。状況と照らすと、やや性急の感もありますが、震災をきっかけとして東日本中がこれだけの戦々恐々とした心情に陥っているのだから当然避けて通れない議論です。

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ただ、ボクの側から見えている議論の中身はまだ従前のそれとほとんど変わりない、質が足りていない、ようにみえます。
原子力発電所の事故によって、あるいは放射性物質そのものの影響により死者が出ていないからすなわちこれはほかの工業製品よりも安全であると言えるのだとか、生まれ育った土地への愛情や財産権の議論おざなりにされている状況があるかと思えば、原子力発電による恩恵、殊、経済への貢献にオマエ等も浴してきたではないかという論調もあり、一方、都市部への電力供給のために地域が犠牲になるという理不尽についての論調もあり。ともすると、何について話していたのか見失いがちです。こういった風情に陥ってあまり議論の品質が上がらないこともまた、原子力発電が生命、健康、財産、暮らし、地域、安全、経済と多岐にわたり否応無しに影響を及ぼす中核的な技術であるという証といえるのかもしれません。

原子力発電容認派から推進派の言い分としては、既に相当の割合で原発依存のエネルギー政策が敷かれているということになるかと思います。今回の事故に関する申し分は、一般市民に死者が出ていないことから原発の安全性は依然として保たれており即ち事故前と意見を異にすることはない、という傾向にある気がします。もしかするとそんなことよりも、各産業が一時的に止まってしまうことによって、経済が停滞することの方をよほど恐れているかのように映ります。

これとは反対の立場にある原発の反対派の申し分は、とにかく安全の希求ということですから件の福島原発事故については、かねてからの彼らの恐れの一部が現実のものになったということで、次ぐ句もないような怒りを持ったことと推察します。核燃料や核廃棄物の取り扱い方法は勿論として、今回の事故への手当てのマズさや遅れ、情報隠蔽への危惧とデマの流布までをも含んで「人類には早すぎた技術」の認識を改めて深めざるを得ない気がします。

今回の事故を通じて再び原子力発電を巡る議論が活性することは、人類だか人間だかとして健全な正の反応とおもいますから続けてゆけば良いのかなと思います。いずれの結論を選び取るにせよ、それを達成するにはものすごく長い年月がかかるでしょうから。

しかしながら、このままではいけないんじゃないだろうかと気がかりなことが二つばかり。ひとつにはリスクと危機の区分が未分化で恐ろしいなということ。もうひとつには、上にあげた二者、原発容認・推進派と原発反対派とは、実のところ全然別のテーマに端を発していること。

前者容認派は、経済のグラウンドに立ちながら国際競争力の維持拡大を唱えているだろうと考えます。なににも変え難い価値を経済力に据えている、というと言い過ぎかもしれませんが、まず国富。このために極わずかのリスクを携えることは已む無しです。これに対して、後者反対派は、もとより健康と生命に価値をおいていますし、もしその価値観に指標を添えるなら国内福祉とか国際的な信頼の獲得を目指してるというようなことになるでしょうか。このためリスク・ゼロを信条とするという姿勢になりそうです。
はて「リスク」とは何を指しているでしょうか。リスクという語には幾つかの使われ方がありますが、今回の場合はおそらく最も一般的な使われ方「事故(有事)の発生頻度」の事を指していることと設定します。そのうえで、自動車事故のリスクや飛行機や列車事故リスクと比較する議論が成り立っているわけです。
しかしながら原子力発電施設・管理における、その他とは切り分けなければならない特殊な要件というのは、万に一つ事故が発生した際の、危機状態の捉え方と言えるとおもいます。その危機状態の特殊性は、生命・健康、生態系、環境へ及ぼす影響の大きさ、深刻さ、そして永さでしょうか。これらはさんざん議論を繰り返している「リスク」とは全く別のテーマに思えます。危機状況の発生以降一定期間の影響を何かしらの尺度でもって評価されるべであると、個人的には考えます。
しかしながら、この要件については聞こえてくることは非常に少なく、「リスク低い」の声にかき消されがちです。「リスク低い」は非常に言い切りやすい語であり、また実際に他の工業製品などと比較しても事実なのだろうと思います。が、ボクが確認したいのはその点ではないのですね。備えておくべき「危機」の規模と対策と回復方針について「考えていないませんでした」という底の浅い議論では、この件の決着には値しないように思えます。

どうせいこうせいなんて言ったって何処かへ願いが届くわけでもないので、いつも通り遣る方ない感じですけど。
先に挙げた二つのこと。大真面目に危機状態を人命と健康と経済とのそれぞれを指標に則って評価し、評価値を共有すること。加えて、原発反対派は経済と国際的な競争力の維持へ十分な注意を払い、原発容認・推進派はリスク確率 0.01% の陰に我が身を潜めることなく自分の命と健康と故郷と家族を討議の遡上に乗せること。そういう議論がいつかどこかでなされるとボクはシアワセだと思う。

ともかく、日本国内に50基ほどの原子力発電所があり、これに依存して生活と経済が回転している現在地点から眺める二つの未来世界の分水嶺的位置にある技術がたまたま原子力発電なんだということで捉えなおしをしないといけない、というふうに今回の事故を通じて考えを新たにしました。また、象徴としての原子力発電そのものをいくら眺め回しても、またその功罪をいくら評価しつくしたところで、もっと言えば利権を訝しがったところで、おそらく容認派と反対派の思い描く世界が交わる明日はやってこないだろうと思われるのです。議論は平行線の途を辿る。

人サマのことばかりも言ってられず。
さてボクはといえば。もちろん経済と命に関わる議論には喚ばれもせず、背一杯の大枚をはたいてはいるがそれでもしみったれたベランダで、日本中いっそ世界中の全国各戸に一般家庭でも導入が可能な程度に安価で、十二分な量の発電と蓄電が可能な設備が完備されてて願わくば戸間での電力の貸し借りもできるような、発電といえば分散型の生産が最も効率的だよねというような第三の世界へ想い馳せるばかりなのです。ほんのちょっとだけ何か混じりかもしれない夜風を受けながら。

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