メモをとならない。相手のイライラを察知できない。挨拶ができない。時間が守れない。電話に出ない。服がダサい。声が無駄に大きい。事前の下調べをしない。電車の中でやけに近い。なんか違うところで泣く。世を渡ってゆく中でいくらでもある、不思議な態度とその変容について。
いつまでたっても、なんど言っても、前向きの態度変容が認められない人というのはいる。その求められる決して特別では無い前向きの態度変容が出現しない原因が何かを考えるにつけ、センスに思い至る。そしてセンスってものは持って生まれてくるものなのかもしれない、という壁にあたる。
センス、センスって。なにも崇高なことを言おうと言うんじゃない。誰もが岡本太郎にはなれない。そんなことは身をもって承知してる。ここで言うのは大多数の皆が等しく持ってる嗅覚、味覚、触覚、視覚、聴覚の五感をはじめとした一般的刺激の受容体を器官とした知覚そのものと脳みその中で処理される認識と世界の再構築のこと。これは決して特別なことじゃなくほとんどすべての人間の共通仕様だ。
そして、大方の場合、行為の品質向上のための基本的な受容体を備えていない人というのは、ほとんど居ない。それは目であり、耳であり、皮膚であり、だいたいの場合にはこれらを備えて、場合によってはそれらの上にスーツとシャツを着て、あるいは社長の部長のママだの警官だのと肩書きを着て社会の中で振る舞っている。くれぐれもシックスセンスは必要ない。
センスが単なる受容体以上のところで位置づけられて重要視されるようになるのは、それだけ人の世のインプットとプロセスとアウトプットが一般生活で価値ある大切なことだから。むしろセンスが人の価値を決めるようなところがあると言っても言い過ぎではない。ものの見方、ものの処理の仕方、態度の示し方。たまさか幸福な家庭に生まれた場合には、どれも子供の頃から厳しく躾けられる。そうそう幸せでない境遇の場合には、態度の示し方だけを激しく罵られたり、撲たれたり(もちろん撲たれることがインプットになるのだけど、それはあまりに刺激として強すぎてセンスの枠を超えて生き様を形成するようになるとおもう)、あるいはヨハンのように完全な放置にあうこともあるのだけど、それは別に珍しいことではないし、その不幸せの中ででもなんとか独自にものの処理の仕方やを、それこそ才能がある場合には、自ずと身につける。いずれの環境においても、全く何も身につけないと言うことは人間のDNAが許していないんじゃないかと思われる。で、先の幸福な環境の下、先人の手引きがある場合と、不幸せな環境で独自の理論を開発するのとでどちらがより優れたプロセス、ひいては優れたセンスを身につけそして発揮することになることになるかというと、それはなんとも判らないことだとおもう。結局、そのセンスを評価するのは社会であったり、時代であったり、特定の個人であったり、そして本人であったりするのだから。一般にセンスというときには案外と行為者本人の本人評価について言われることが多い。アイツはダサいというときには、たとえば彼のその見てくれがダサいという事実そのものよりもむしろ、彼はなんでダサいままで平気なんだろうね、彼は自分のことどういう風に評価してるんだろうね、彼は信じられない(自己評価の)センスの持ち主だね。というようなニュアンスの方がより色濃いという具合に。ということは、センスの評価評定というものは、其れ自体がウヌボロスの蛇的な、シュレディンガーの猫的な、そういうところがあるから一筋縄ではいかない。し、そういうところがセンスを謎めいた神秘的なものに仕立てているともおもう。
センスの評価尺度はともあれ。あくまで、自らが身を帰属させる社会地域、共同体における一般的、標準的なセンスを備えることができるなら、それは実際生活の中でなにかと捗ることは事実だし、隣人らから愛されるようになると考えられる。飛び抜けた一流になるかどうかについてであればセンスの規模感や独特さも問われようが、なにもそこまでの話をここでしようと思っているわけじゃない。飛び抜けたそれは一流の人がやってくれたらいい。(まあその一流というのも時代と社会が決めるのだけど)ここはあくまで凡庸の一般のセンスについて、そのあたかも通常そうなプロセスについて考えたい。で、大まかに言うとこういうプロセスなんだろうな、を下に。
1.[刺激がある] > 2.[受容体がある] > 3.[受容体の反応がある] > 4.[神経伝達がある] > 5.[脳での信号受信(認知)がある] > 6.[意識にのぼる(認識)] > 7.[考える・悩む・繋ぐ・結論する] > 8.[結論を保持する(記憶)] > ゴール.[結論の実行(態度変容)]
凡庸にとって、社会の中で自分を生かすのに必要なのは上の一連の処理プロセスでしかないと思う。凡庸であれ、五体満足に生んでもらった身であれば(まあ其れ自体がもの奇跡的な幸運だったりもするのだけど)さほど難しい処理系ではない。それにもかかわらず、社会的交流の中で、とある特定の人物に求められる態度変容の兆しが見られない場合は少なくない。これは、上の処理プロセスのいずれかの点に、何らかのユニークさを抱えているからだと考えることが出来そうに思える。というかそういう風に考えるしかないじゃないのよ。で、このプロセスの全部をつまびらかにするのはものすごく面倒くさいので、前さばきをしたい。上のプロセスの中で 2. から 8. は人間に比較的強固に備わる基本的機能だと言って差し支えないと思うのでここにユニークさは無いとして割愛する。2.から 8.を除外できると仮定すると、残すは、1. の刺激、7. の結論、8. 記憶。この 3 点にユニークが生じているケースが多いという仮定も成り立つので、この体で先を進める。1. の刺激、7. の結論、8. 記憶、このそれぞれをもう一段階細かく分解して、なおかつ態度変容を阻害しそうな要因を類推すると次の通りになる。
1. の刺激において考えられる課題は、1-1.刺激が無い。1-2.刺激の強度が不十分。1−3.刺激が別のプロセスを生んでいる。
7. の結論におて考えられる課題は、7-1.よりよい結論が存在しない。7-2.結論を導く術を持たない。7-3.結論を導く意欲を持たない。
8. の記憶において考えられる課題は、8-1.記憶容量の限界。8-2.記憶保持の術を持たない。8-3.記憶保持の意欲を持たない。
さらにこれらを大きく二つに、周囲の者に由来することと対象者本人に由来することに、分けると次になる。
周囲の者に由来;1-1.1-2.1-3.7-1.
対象者本人に由来:7-2.7-3.8-1.8-2.8-3.
それからさらに、対象者本人に由来のもののうち解消が不可能なものは8-1.
とすると、凡人における態度変容の出現に関して、その個体のユニークさを問いただしたい項目は、7-2.7-3.8-2.8-3.となる。これを口語的に簡潔にまとめるとするなら、結論にせよ記憶にせよそれを導く術か意欲かを備えていない、ただそれだけということになる。つまり何が言いたいかというと、方法(術)とやる気(意欲)という、世に言われるセンスの神秘性とは真逆にありそうなあたかもアメフト部みたいな、要素に帰結する。
で、これらを改善するための贈る言葉があるなら、それは「がんばれ」だろう。7-2.7-3.8-2.8-3.の範囲の内側で前向きの態度変容が見られず腐心している、おそらくどちらかというと上役の人たち、態度の変容を示さない彼らには、ただ一言「がんばれ」と言いつづけよう。また、もしも余裕があるなら、言葉だけではなくがんばれる環境をまるごと提供してあげよう。またその環境から逃げ出してしまわないように、逮捕だとか拘留だとか民間には許されない行為に至らない範囲で、注意深く見守ってあげよう。なぜなら彼らは何らかの事情で其れをせずに、つまりがんばらずに、過ごしてきたからこそ、今更な態度変容を求められるに至っている背景があるわけだから。
注意して欲しいのは、1-1.1-2.7-1.のほうで、これは上の文脈を引き継ぐならば上役の人が間違ってる。刺激を与えるべきあなたが与えていない。刺激の強度調節が間違っていてそれが弱すぎて伝わっていないかまたは強すぎて皆とっくにあなたの元を去ってしまっている。または態度変容の期待ばかり押しつけていて上役のあなたが到底実現不可能な無謀なことを言っているにすぎない。そういう場合があるからこれは態度変容を求める側の人、つまり上役の人が真剣に自戒してほしい。
そして最期の本当の大問題は 1-3. と 8-1. だ。もしもこれが該当の場合には、上役であるあなたも、態度変容できずにいる本人もどちらにも罪は無い。ただ、本人はものすごく疲れてしまっていたり、混乱してしまっていたり、最悪パニックの直中にあるで普通の対話で活路を見いだすのはほとんど無理であり、強いてやりたいのなら飽くなき挑戦を止めるものではないが、態度変容のためのトライをするだけ徒労に終わる、もう少し言うとトライする主体側が大きな虚無感を覚える可能性があるということを心得たほうが、なにかと身のためだとおもわれる。但し、1-3.の場合には凄く特別な注意点がある。1-3.に該当する場合には、生まれ持った特別のセンスの持ち主であることを疑って良いということ。あなたがトム・クルーズなら彼はダスティン・ホフマンであり、同時に、ダスティン・ホフマン程には難しくない。これはとても幸いなコンディションといえる。凡庸にはまねできない特別の成果を出す場合と、凡庸には発想できない失態を繰り返すことになる。そこから先はあなたとあなたが所属する共同体が備える包容力次第になる。許される限り最大限、一緒に歩んで共に信じられないような成功を掴んで欲しいと願う。
そして冒頭に書いた、「センスってものは持って生まれてくるもの」は、ものすごく特異なケースそれはたとえばイチローには当てはまるかもしれないが、一般の世を平均的な範囲で渡る場合に限っては当たらないということを言っていいのかもしれないと思えてきた。自説を翻すようで、あれですけど。
またもしも仮に世の中に違うタイプのセンス(それは俗にユニークとして言われ守られるところの神秘的なもの)の持ち主が沢山出現するようになっているとしたなら、それは何か社会的な変化によって「がんばる」人が極端に増えたか、あるいは残念ながら大体においてこちらだと思うのだけど、「がんばる」人(ここは人でも理由でも環境でも必要でもなんでもよい)が極端に減ったということと概ね相関関係にあるのだろうと考察される。
がんばろう。