一定期間かけて取り組んできた仕事が一旦片付きました。スポットスポットでみるとある程度の実行と実現、小さな変化の繰り返し。それから全体としてみると目標へ向けた船旅の座礁という様な状況でありました。
振り返るにつけ、悔やまれるところと反省すべきところが山とあります。この沢山の去来する出来事の数々と、断片的な想いや整理のつかない気持ちに、総括の手がかりすらもがつかめず狼狽えているところも未だ大いにありますが、早々締めくくって次の展望を持ちたいところです。それにあまり長い期間放っておくと、すっかり忘れ去り無に帰す自信もまたあります。そういう訳なので、出来事なり捉まえ方なり活かし方なり整理を試みます。試みつつも全然整理されはしないだろうと想うのだけどトライ。

さて端緒。昨今の荒波のような環境の変化を受けて、過去と比べて経営が難しくなりつつあることをひしと実感している中小零細企業があります。てっとりばやく言えば売上げと利益に上向きの変化を求めたいと考えています。少しもってまわった言い方をすれば、会社の機能的、構造的な変化を希求しているということです。しかしながら、法人といえども個人と同じように我儘な申し分というのがあったりします。同じく口から吐かれたものと思えないような全く対極の事柄の要求が居並ぶという、少しばかり言葉はきついですが支離滅裂な要求がままあるということです。

今ひとつ成績が振るわない、よって自分は変わらなくてはならない。そういう風に一念発起し、命題を掲げました。しかしこれと同時に、変わりたい様にして変わりたいというような思いもある状態です。
視力に劣るので視度矯正を考えている。メガネはダサくて嫌だから、コンタクトレンズの方がいい。じゃあということでコンタクトレンズを試してみたんだけど、痛くていたくてとても我慢できそうにない。こんなに痛いのならいっそのこと、裸眼でいいや。
唐突な例えばなしですが、風情としてはそういったようなものです。できる限り、苦労や痛みあるいはそういったことへの恐怖心と対面することなしに前向きな変化を遂げたい期待です。その思い自体は必ずしも悪いことではなく、むしろ、良く作用する場合もあると思います。結果的に眼球を傷つけないだとか、裸眼で過ごすことで視力低下に歯止めになっただとか、直後偶然に誕生する革新的な製品の波に乗れただとか。
ただし期限付きの喫緊の要望として変わりたいというのが真実の意向だとするなら話は別です。たったいま唐突に、やむを得ない事情で、変身しなくてはならないとしたなら、当人が多少の無理を負わなくちゃならない道理があります。普段なら避けて通るような嫌なこと、苦手なこと、不慣れなこと、一時的に非効率らしいこと、痛いこと、恐ろしいと思うことなどです。それでも、打開策が得られるのであればそれは幸運だと捉える必要があります。

あくまで道理に則った考えとしては僅かばかり覚悟は必要じゃなかろうかと思いはするものの、変身を切望している経営メンバー等は、ある種の条件を汲み入れたものでないと、そのプロセス、つまり眼鏡なりコンタクトレンズなりレーシックなり、を受け入れない意向ということです。ここで仮に、しからば同条件を満たさない場合については希求される変化を諦める(ことができる)のですか? と問えば、変化を諦めるという選択肢を受け入れられる程の余裕が無いことは火を見るより明らかであるわけです。そういう後の余地が少ないということにまだ気が回っていないのか、あるいは重々承知のうえでのことなのか。そこの真意は測りかねますが、とにかく条件があるといいます。
その条件というのが、従来の社業に近いものでなくてはならない、連綿と続く「らしさ」を踏襲していなくてはならない、当社事業・当社商品サービスの独自性を弁えて守るという類いのものです。いずれもが大変もっともらしく、また一般的に頻繁に言わるところではありますが、果たしてそれらが適用されかどうかというのは、当該の企業が今現実に対峙する局面の厳しさによるのだと思えます。そして今の局面ではあたかも、そういったことを言っている余裕は認められ無さそうに見受けられます。
状況認識についてのズレと同時に、というかおそらく端を発してという関係性でしょうが、変化の要求が漠然としていることも大変気がかりとなりました。言うところの「らしさ」とは何なのか。いうところの「独自性」はどのプレーヤーと比べたものなのか。そもそも、そのらしさや独自性は市場における競争力としてちゃんと機能しているものなのか。会話を経ても、なにも見えてくるものはありませんし、最期までそれが見えることはありませんでした。「らしさ」というフレーズそのものは会話で、会議で、頻度高く飛び交いますが、その中身について指し示す言葉が一向出現することはないのです。どうやら市場だとか競争環境だとかに関する一般的な理解によらない、自分発信の事柄がその中身として相当する気配が感じられます。

強いこだわりを示す持ち前の「らしさ」とは何なのか? を明確にするために問わなくてはいけません。持ち前の独自性が何であるかボードメンバー達の足並みを揃えてもらわなくてはなりません。が、いくら問いかけても、一向はっきりとした回答は得られない状況が続きました。我が社の歴史、変遷という体裁で長い話を伝えられることはあっても「らしさ」の中身を指し示すズバリ一言は待てど暮らせど。
そうした漠然とした「らしさ」の陰に隠れるニュアンスを強いて抽出すればそれはあくまでも「今まで通り」を遵守する姿勢が条件として示されていると理解していいだろうと思えます。もともと「らしさ」の権化は経営メンバーであるわけですから、権限を越えず、生意気を言わず、言われたとおり降るまいたまえというプレッシャーだったのかもしれません。あるいはもう一つ、可能性としては、顧問なり銀行等から言われていることを、そのままそっくり受け売りしているケースなのかもしれません。外部関係者から指摘されるところの、「らしさ」は大切だぞ、をそのまま別人格へ中継している場合にも似た現象は起こりそうです。「らしさ」は良くわからないし、その特定は面倒だけど、とにかく外部の重要な関係者から求められているから誰か答え出しといて、という具合の実態があるかもしれません。
この場で、ことさら「らしさ」の正体を明らかにする必要性はありませんが、とにかくなんだか経営メンバーの意思、思考、克己心、合理性などの面で、あまり良いコンディションにはない様子だけは覗えます。

先に、変化に際して条件が適用可能なものかどうかについては社が置かれている局面による、と述べました。局面によってですから、会社のビジョンと過去の意思決定が成功の要因に確りグリップして、成績が順風満帆快走状態にあるのであれば、その言わんとするところの条件は適用できるのだと想われます。だってこれまでの実績として成功を掴んできている訳ですから。ですから、社業が順風満帆前へ進んでいる状態というのは「今まで通り」の価値が非常に高い状態と言って良いはずです。創業以来の何年もの間、会社がこつこつと積み上げてきた人材、ワークフロー、サービス、事業、市場認知、ポジション、収益構造、社外ネットワークなど、苦労の集大成が実を結んでいるということであり、それは代えがたい価値です。この状態は過去から現在にかけて全ての関係者にとっても価値を認めているところであるはずです。
銀行や株主は「今まで通り」を信頼の礎にして業績の継続的成長を見込んでいます。従業員は「今まで通り」の昇給や昇進をライフプランに織り込んで身を寄せています。顧客は「今まで通り」の商品サービス品質・価格を手がかりに安心して注文しています。そういった既成の信頼関係でもって、本来散り散りであるはずの関係者が集合しバランスしている状態が厳然とあります。
がしかし、会社の成績が順風満帆ではないという局面なら、会社のビジョンと過去の意思決定が、目指す成果の因子にグリップしている/いないという事柄をまず疑い、検証し、措置を執らなくてはいけないということになります。これは簡単に言えば、考え方を変える、頭を変える、実行方法を変える、関係メンバーを変えるということです。なにより最初に価値観を変えるということが実行される必要があります。「今まで通り」の価値の感じ取り方、量り方です。
ある種奇跡的にバランスを保ってきているところの各方面との関係は、本当に価値があることなのかどうなのか、これは現在になって過去へ感謝をするのと同様で、未来側から眺めて現在の価値を推し量る工夫が必要なことです。その評価をしたうえでないと、偶然にして共存共栄している従来の関係者とのバランスが良い者か悪い者かどちらとも言えないわけです。
そういったプロセスを経ることなく「今まで通り」を理想の中心に据えて、生業についての考えを煎じ詰めれば導かれる結論は、従来の頭で、従来の考えで、従来の方法で、従来の面子で、従来通りに粛々と、という姿勢へ帰結する他にはありません。
そうやって仰ぎ見る従来通りの有り様というのは、日々変わりゆく市場の直中にあっては、人間同士のバランスを維持するために慎重に着実に転ばないように走らないように挑戦しないように危険を冒さないように今を今日を昨日と同じに運営しながら、必然や偶然によってこれまで市場内で育まれたプレゼンスや収益やを、ゆっくりと鈍化、衰退させてゆくというのに他なりません。

大きく区切って 20 年前、必要に推し出され現在の社業の柱となる事業がスタートしました。一時は止まない成長の時期を経験しもしました。途中今後 10 年の安泰を予感させる大口客がついたこともあります。この大口客との取引による安定収益を梃子に、毛色の違う新たな事業をスタートしもしました。この新たな事業は、業務内容の面からは社員には評判が良くなく、収益性の面からは低調な横ばいが続いています。現在に至っても未だ黒字化を果たせそうにない不採算事業です。それでも新事業を継続してきました。そうすることが出来たのも、ひとえに柱である事業に安定的で高い収益性能が備わっていたからです。
ところが近年では柱となる事業の成長性に陰りが覗えます。実績の数字としてみて年をおうごとに成長率が鈍化していますし、未来に対する展望にもネガティブな要因がいくつも浮上するようになっています。きっかけはくだんの不景気。これに圧され諸経費見直しの動きが生じたことがあります。もうひとつ原因を加えると、情報技術の大幅な様代わりと伴う生活者の態度変容です。これを受けて、顧客自身が景気の荒波に揉まれ、喘ぎ、経費の見直し節減の波及が支出コストへと及びます。顧客側の要請は価格交渉を中心としますが、傷口は広がり続け、後期には一部商品の扱いの停止を迎えます。
永劫続くはずの安泰は、急転直下危機にさらされました。振り返れば、約 10 年前に空中に放った球は既に十二分に飛距離を出し、放物線の下りの曲線にさしかかっていたということなのかもしれません。現在時点では成長性維持も、売上げ予算達成も残念な状況にあり、利益確保は容易でない状況です。活況を呈した頃と比べれば、現下あるコンディションは間違いなく衰退の段階にさしかかっているようです。先にも挙げたとおり、もう一方の追加で始めた事業はずっと不採算ということで先の見えない状況下にありますから、頼りにはできません。
そうであれば、変化に気が向かうのは自然なことですし、多少の痛みや恐怖心は受け入れて、乗り越える価値がありそうに思えます。

組織の規模に目をやると、今の時点では所属する業界の中では相対的に大きな規模といえます。存在感の面からは中々一流のプレゼンスであろうと思いますがしかし、当然ながら、組織が大きすぎるというのもちょっと考えものだと弁えると、特に良いとも悪いともなりません。単に人数規模が大きいという以上の意味は伴いませんが、良い面だけピックアップすれば、この組織の規模感が市場に対するプレゼンスの役を多少は果たしましたし、顧客にせよ従業員にせよ安心を誘っているような部分があったのに違いありません。過去活況を呈した頃、事業の成長にともなって人的リソースの継続的な増強を行ってきました。そうすることで大きな案件、多数の案件の急場を乗り越えることができました。事業の性質上から、主たる投資である人的リソースの殆どを不景気の度を増す現在も丸抱えしています。これらの資源を無駄にすることは、収益面からも人間関係の面からも極力避ける必要があります。無駄に出来ないどころか、収益の確保が難しくなる一方の現在ではこれまで以上に回転率を高めなくては間に合わない状況を認めなくてはいけません。手持ち資源の回転率を高めることを考えるとほとんど自動的にできる限り不慣れな商品サービスの取り扱いは避けたいとなります。経験と実績のある分野へ資源を投下して間違いのないグリップで確実な回収を果たしたいですし、欲をかくなら同分野へ徹底的に資源を集中することで一層多くの回収を目論みたい、そういう当然の力学が働きます。業種業態、業務フロー、人、設備、管理とも保有するものはできる限り変えたくない動機がそこにはあります。なるべく何も変えない、品目一つ追加したくないという本音があります。とはいえもちろん肝心の引く手がなければ、資源投下も集中もへったくれもあったものではありません。

そもそも余剰の労働力の投下先に喘いでいるからこそ、変化を求めたわけでもあります。それにもともと経営者の気持ちとしても、時代から強く要請を受けるような当代なりの新たな社会的価値、ポジション、商品サービス群の創出に興味がないわけではありません。殊更二代目社長なら、殊更下り坂の経営環境なら、そうおもわない方がどうかしていようというものです。そう思う一方で、保有する資産の取り扱い等についてなるべく面倒事は避けたい気分があります。資源の投下先を集中するセオリーを踏襲したい思いもあります。あるいは業務の単純化に関していままでよりももっと先鋭化して欲しいという現場側からの要求があります。組織内部のバランスを守ることに傾倒すれば、そういった現場側の声もまた無碍には扱えません。資源の確実で十分な投下先、業務単純化を実現できる投下先が必要です。でも、それだけをやっていてはどうやら明日はあっても明後日はなさそうだ。それに気がついていないわけでも当然ない。そういう引き合い下にあって、浮上する方針は、玉虫色です。

過去のどの時点よりも多く働いて、昨日よりも今日優れた働き方をして、多くの若手社員を指導し育成してきました。それでいて何故、等級と給料額面の待遇ばかりは遅々として改善されなのか。そのことに関して理解を示すことができない突き上げ厳しい従業員らに対して言えることと言えば、可能なかぎり思慮を持って領域を選択する。なるべく負荷が小さくなるか、でなければせめて新たな業務的負担の増加がゼロになるように工夫するという類いのことです。この口上が、従業員一人一人が既に備え研鑽を積んできたところの職能の、新市場か新サービスかへの転用可能性と地続きとなるわけです。手短な表現でいえば、君等はよく頑張ってる、認めている、だから君等自身は変わらなくて良いのだ、ということ。ついぞ甘口のメッセージをしたくなってしまうわけです。この口上に慰撫されて、従業員の一部は、もう一度、今しばらく信託しようと思い直すわけです。
がしかし、優しい経営者の胸中の実態は、具体的にどう転用が可能なんだという段に関して、一切の算段は立ってはいません。純粋に甘口のメッセージという結論に対してある種予定調和的に「できるとおもうから安心して、できない場合には無理言わないから。」という、今現在の信任を得るためだけに、安心を演出たに過ぎません。
むしろここで本当に求められている転用の内容は、例えば、新聞記者に週刊誌記事を描けということですし、ラジオ番組の構成作家へテレビ番組を作らせるということですし、鞄職人へ靴を作らせると言うようなことです。ただそういう風に言うと、更なる波紋を産むことが予想できるしそこへの対処は面倒なので、波風を立てないトークに終始しているに過ぎません。このあたりの諸事情が、冒頭でふれた「らしさ」や独自性が条件であるとするその遠因にあたるだろうと推察されます。もしかすると、直接にして唯一の要因である可能性もゼロではありません。
また後々、口上が場当たりだったと知れるところとなれば、その後の内部的信頼の荒廃は必須でしょうし、だからといってこの口上をそのまま真実にしてしまうということは言い換えれば豊かな将来を切り開く選択肢の大半を「今現在のスキルセット」によって足切りするという考えられないほど大きな機会損失を呼ぶことになりかねません。

従来 [現場が] 得た [であろう] 経験をそのまま次代に活かすことができる、その先に我が [社の] 未来があるはずだと平らげたような高みから事を大きく捉えて、手元に可能性のカードを残しておきたいわけです。同種の処理は従業員に対してだけでなく、収益の源たる顧客に関しても似た大雑把さが示される場合があります。例えば、これまで自前の商品として情報収集分析サービスを提供してきた。ならば仲介者の頭を越えて、直接顧客へ分析サービスを販売すれば良いじゃないか。我々は何も変えることはないのだよ、というような。例えば従来商品として、スチール撮影のサービスを提供してきた。ならば広告代理店を飛ばして、直接顧客へ撮影業を提案販売したらいいじゃないか、というような形かもしれません。ろくすぽ媒介たるサービスの価値を理解せず、兎に角、最終納品物は我々がやってるのだから、提供できない理屈はないのだと風呂敷を広げて、今しばらくの安心を確保するわけです。納品物の有様がいくら似ていたとしても、顧客の期待にそぐわないサービスの販売や提供スタイルは、従来顧客を失望させますし、新規客を取り損ねるのが大筋です。が、細部を伏せて大雑把を唱えていれば、たった今この瞬間の、安心感は得られるわけです。

何故ことほどさように当座の安心を担保したがるかというと、なんだかんだいって、組織において、特に大きな組織において急ハンドルを切るというのは、起こるインパクトの範囲も規模も大きいですし、漠然とですがブレもリスクがありそうですし、不平不満はほぼ間違いなく各所から噴出します。とにかく面倒臭いことが沢山起こるわけです。これはもう紛れなくそう。
であれば少々話を脚色して、小さい変化量、を演出した方が今後関係者に対する説明上いろいろ有利なことがありそうです。それはいかにも嫌らしい計算によるというよりも、もっと刹那的な、ごまかしか世渡りのセンスのようなもののように映ります。

このことが事実だとして、この反射反応を裏側から透かして眺めると、変化にともなう関係者調整が最大の難関であり、現実路線でこの難関を越えること、乗り越えるのに必要な量の労力を支払うことについて、ほとんど絶望視しているところがありそうです。
インターネットで物販?無理無理。インターネットで音楽配信?無理無理。電子書籍?無理無理。どれだけの利害関係者が居ると思ってるんだ?恨みを買うだけだぞ。やるだけ無駄どころかマイナスだよ。ホント判ってないな、オマエは…。
事の大小、関係者の内部外部の別に違いはありますが、そういう具合の縮図は社内外、個人法人を問わず各所にあるということです。そこでは真正面から向き合って侃々諤々、最終的には一蓮托生の関係を築きあげるというのは、当初から予定に組み入れられることはなく、そうであれば自動的に、誰か別の者のもしかしたら正解かもしれない声に耳を傾けるつもりもまたなく、関係者間調整に背を向ける姿勢があるという具合です。それは気の重くなる辛い仕事ですから無理からぬことですが、だからといって物事の始まりから場当たり的な騙し騙しの手法では、信頼関係など構築できようはずもなく、信頼なければめざましい変化もまた期待できない、そういう循環系をグルグルと回っているようにも捉えられます。
なによりもまず先に、自身が出来ることの上限を策定してしまったなら、その枠の中で七転八倒してるより他にやりようなんて無いわけです。変化は望むべくもないところです。

会社の歩んできた道があり、人間関係、利害関係のバランスがあり、今まさに走り続ける事業があり、予算の未達、成長性減退の事実があります。これらに加えて、自身のやれる上限が漠然とした条件としてあります。
このコンディション下にあって、先に書いた漠然とした「らしさ」や独自性を堅持することが今回の変身を成功裏に修めることに関連する重要な要件ならば、最初からそう率直なところを記したシートを提出してもらえたら段取りとしては非常に有り難かったところと振り返ります。
そういった初期の線引きが可能であったなら、ともするとですが、変化へのアクションは採らないことがもっとも効率的であるという判断を直ちに引き渡すことが出来る場合もあったろうと思います。この場合、誰にとっても時間の無駄が無いばかりで無く、有能なスタッフを現業に割り当てることができ、場合によっては現業の進化という形の変化があったのかもしれません。最低限としても、微々たる量とはいえ投資分を利益に回すことも不可能でなかったわけです。

結果としての成長性減退の因子を、仮に一旦自身のコンディションを棚上げして外部環境によるものと断定した場合、その後に選べる選択肢は実のところ一択しかありません。
ストレートに考えて、行く末の先細りがある程度はっきりとしている市場に対峙してしまった場合に本来ならば、経営者には少なくとも二つの選択肢があるはずです。二つとは市場を去る準備をするか、市場に居残る意向を固めるか。どちらの選択が正しいだとか優れていると言うことはありません。
去るというのは、新天地となる別の市場へ向けて船出をするということを意味しています。これには調査コストも大分かかりますし、旅程が上手くいくかどうかもわかりません。肥大化した組織にとって新天地が十二分に喰っていける狩り場になるかどうかのリスクも当然のようにあります。そして関係者間調整という、心理的な障壁の高い、仕事が必要にもなります。
かたや居残りを選択する場合についても同じようにして、色々とあります。R&D や新規の設備投資などのコストに関しては概ね従来の延長上で済みますが、兎に角、競合に負けない価格品質をはじめとした競争力を磨き上げ、市場シェアの最大化を目指さなくてはなりません。安心材料は、市場が縮小傾向にあるとはいえ、いくらなんでもたったの 1, 2 社が食いっぱぐれるほどに小さくなる可能性は非常に小さいということがあります。その反面でライバル達との我慢競べに敗れ去る可能性もありますし、案外本当に全く市場が消失してしまうリスクはゼロではないです。そのときに恨みを言う先はありません。
細かなことは脇に退けるとして、ともかく最初の段階では最低限度二つの選択肢が認められています。しかし特段の根拠も無く自身のやれることに上限を定めて変化のプロセスに特殊な条件を要求すると、かなり上流のところで選択肢が一択へ目減りする場合が出てきてしまうということです。仮に、ここでの前者、市場を去る準備、は自身のコンディションを直視して、関係者への説得に挑み、視野と知識を広げ、明確なリスクをとる覚悟でないと選択しづらいことです。後者、市場に居残る、市場のコンディションと自社のコンディションを信じて、関係者には従来通りを宣誓し、よそ見をせずに領域内情報収集に勤しむだけで、楽に選ぶことができます。従って、今現在の関係先を過度に重んじ、または説明説得を放棄したいために、「らしさ」の探求を重んじて前へ進んでいくと言う場合には、ほぼ自動的に後者の居残りしか選択は認められないということになってしまいます。まあそれは「らしさ」の置き所によっては違う場合もありますが概ね。

過去から未来に賭けて自分たちが何者で、過去はともかく今後未来に対してどう役割を果たしてゆくつもりでいるのか。
変化後のイメージについてそのものズバリな言葉で言い表すことが出来ていない場合、その原因は依頼者各位が現在の状況と未来の状況とその間にぽっかりと空くギャップについて理解が揃っていないか、理解が及んでいないことを予想しフォローしなくてはなりません。

再びたとえ話ですが、仮に今この島にいてなんらかの理由で食料が枯渇してひもじい思いをしている、通常の生体反応として村人全員が異口同音空腹を唱えます。それでもじゃあ辛い空腹に向き合ってどう処するかという段になると途端に様々な処し方が挙がることになります。右端には食料を強奪してでも空腹を補いたいと考える者から、左端には空腹に耐えながら自らの非力を責めさいなむ者もいるのかもしれません。捉え方、処し方は人それぞれです。
考え方は様々あれど、必要な回答は十分な量の食料の確保です。そこでなんとはなしに妥当そうな線として水平線の手前に見えている手を伸ばせば届きそうな別の小島へ渡り移住することを思いつき、その件について評議をしたとします。空腹の皆が賛成かといえばそこは案外皆がみな賛成という風にはなりません。そこでは体力のある者、泳ぎに自信のある者、過去に渡航の経験がある者、造船技術を持つ者、そして若い者等はほとんど深く考え込まずに賛成できますし、反対に泳ぎの出来ないカナヅチや、渡航トラブルを経験したことがある者、年寄り等にとっては容易に賛成しかねることです。人によって、状況や能力、考え方、余生の量によって、危険なり他の事柄と空腹とを天秤にのせて、安全や従来通りを選択する場合があるということです。
どちらの意見にも一利あるわけですが、利の根源は、個々人のコンディションによるということです。さらには渡った先の島が本当に豊かどうかの確証がないことを組み入れると、ポジティブなリスクとネガティブなリスクの二者を天秤に乗せた議論も生まれます。本当に様々な理由があり、それぞれがやむを得ない背景によって導き出されています。

組織全体がこの紛糾の直中にあって、経営の責任者等がある種専制的に、現在の狩り場が芳しくないため豊かな新天地を求めて船を出す、そのための仕込みのコストを支払うことについては九割方決めたといいます。が、どの方角へ、どの小島へ、どの船で、どの天候の日にかは向けてかはまだ決めていないとも言います。さらに、見つけるべき島は私たちらしい土地でなくてはならない、とも付け加えます。
それに決めたとはいえ、組織側からはまだ十分な数の賛成票を稼げてはいませんし、最適な初期調査メンバーの選定すらまともには行えていません。何名かの子飼いに探りを入れているという段階です。また明確な反対の票も非公式ながら少なくありません。反対の者は初期の調査にかかるコストすらもあげつらい、コスト分を稼ぐのに日々どれだけ苦労しているかを夜な夜な言い合います。これでは村という単位体としては船出をまだ決めていないというのに等しい状況です。村の長が、あくまでも個として専制的に、俺はもう決めたよと言っているに過ぎない訳です。偶々幸運にしてこの村の長に村民の意識を変え自発的な挑戦を促す魅力が備わっていればそれはそれで成立もしそうですが、そう幸運でない場合、つまり平時の運営能力や管理業務のスペシャリティが評価されたタイプの長であるような場合には、有事の際や新しい冒険の際には頼りなさ気に捉えられてしまいます。
村の長が、自ら克己心旺盛、挑戦的な気質で、余所の島へ渡った冒険の経験があり、そこで豊かな暮しを見聞きし、この経験を持ち帰って話すようなあるいは実りの一部を村へ還元することに惜しみなく尽力するような性質の持ち主であれば、それは言うところのリーダーシップなんだろうと想われますが、通常は、村長は村の中でもっとも安定的で信頼性が高く、そして決定の害が最も小さい気配りが出来る無難な役者が選任されるところもあるはずです。したがって、実のところは他の誰より村の外の実情について疎い場合さえもあります。それだけじゃなく、狩人であった頃というのも遠い昔のことですから、今のムラの狩りの実情についてキャッチアップできてすらいない場合もあります。この長が見もしない島の外での暮しと狩りについて語るのは、むしろそれ自体が、信頼性を揺るがすリスクとも捉えられかねません。

たとえ選択が二者択一といえども、方角が決まっていない状況というのはこうして言葉で描く印象の何倍も厄介なものです。方角が定まらない背景には、事前の情報収集と調査分析の深度が甚だ足らず実質的には世界に関する見識を備えていないのに等しいという厄介さと、加えて主観的で断片的な情報群をもとにあれこれ考えた末、かなり楽観的で好都合に偏った見聞を体系としてさもありなんとしているという厄介さとがあります。いずれの厄介にせよ向こうの島の暮らしの事実を前提に徹底的に考え抜いた末というものではありません。自分起点の印象論か、他の経営者仲間のか新聞で読んだかの他人の成功の、要因ではなく挙動の、表面だけを見聞きして真似るという類いのことです。もちろん全く何も見識を備えないケースなどというのは利益集団においては実在しないだろうと思われるのでここでは割愛して構わない種類のものですが、さりとて一般的に多く厄介の度合いが強いのは、真面目に他社の成功事例について日々情報収集を怠らない人物による偏りある知識体系に振り回されてしまうケースです。そして、偏った知識体系の是正は正直に言ってほぼ不可能です。大人の本気に対する処方箋が用意されるほど、社会は行き届いてはいません。

話はやや心理的側面に脱線しますが、そもそもとある見聞が個々人の記憶や感情や意思と結託しあたかも体系化された意見にまで昇華されるというのはそれ自体が、一個一個がユニークな個別個体のフィルターによって、注意を振り向けるに値する事実かどうかを入り口部分で見極めたその産物そのものです。平たく言えば、事柄がその正しさや確かさや有用さやによっておしなべて評価され選別されることはなく、また個体が興味を示すことができなかった情報群はどうなっているかという事柄も顧みられることはなく、ただひたすら個体が最初っから所有している興味の琴線に触れることが出来た事実だけが捉えられ積み上げられているということです。
喩えていえば、村人の全員に食が行き渡りそこでの暮しと文化創造が可能かどうかということなどは実は考えられてすらおらず、ボクはアタシはバナナが好きだという好みに関することや、別の場合にはハンモックをつるすのにちょうど良い椰子の木があるとかそういった類いの特定の個体にとってだけ好ましいと思える事柄とその周囲の情報だけが先行的な因子として存在して、強く作用するわけです。だから、バナナの為に情報収集し、バナナのための知識体系が誕生します。それは、あまねく全員に高品質の食と暮しをというような全体の利益のための知識体系とは必ずしも一緒のものではないわけです。

そうすると応用的な情報処理たるたった一つの意思決定のために取り扱わなくてはならない基礎的な情報が、その量にせよ質にせよ、無制限に存在する状況といって差し支えありませんし、誰の話を真に受けたら良いのか全く判らなくなってしまいます。ボードメンバー間で、あるいは組織の仲間内でさまざまの情報を持ち寄りあい、沢山の事由を挙げ、結果予測を出し合い、予測の正しさを討議して、是々非々をやりあったその末に「バナナが好き」が参加者全員の共通項であったという発見で調査と議論と情熱が全て根こそぎデフォルトするというようなオチも、案外ある話でして、そういった目的に適わないいい加減な舵取りはあまり好ましいものではありません。

まあデフォルトするかどうかはともかくとしても、基礎的な情報の出所は重い信任を受けたボードメンバーたちかあるいは組織内の信任厚いマネージャーと呼ばれる人たちです。
意思決定の手順の定めか、人間関係の便宜上か。たとえ彼らから挙がってくる情報が誤りでも歪曲でも虚偽でも、申告された情報を軽んずる訳にはいかない力学がそこには働いています。割合とありがちな話とは思いますが、まずなにより重大な大事は誰が言ったかということです。これに次ぐ大事は何時・何故それを言ったかが来ます。果たして最も大事で無いのが何を言ったかという解釈の順位付けが働きます。

どこの会社でもある程度共通して、人が、組織が、発言に関してそういう手合いの評価の様式を採るのにはそれなりの訳があります。それは現在の人間関係や上下関係の持続存続を最重要視するという訳です。人間関係の構図を崩さぬよう思慮を怠りません。発言の一事についてわざわざ評価の優先順をつけることが、ひいては意思決定構造やポスト維持、人間関係の維持、主従関係の維持に甚だ効果的に働くということに皆が習熟しているわけです。これは安定成長の平時にはとてもよく機能する側面がありますが、変化の時にはとても悪く作用するケースの方が多そうに感じられます。絶対にではありませんが、人を奉ると、変化の達成は遠のきます。

ともかくそういった構図の中で一人一人がプレーしている以上、上がってくる基礎的情報は必ずしも正しいものばかりではありません。それどころか玉石混淆といって間違いないはずです。どうして玉石混淆になってしまうか、もう一つの理由は、調査や実験の経験の不足が指摘できそうに思えます。科学的なアプローチとしての調査研究や実験など、情報に対峙して慎重を期する必要にかられた経験の無い人が紡ぎあげる情報です。当然、偏りやムラが多く均質でないものになりますし、情報の深さも、情報収集プロセスの信頼性もまちまちです。ローデータなのか加工済みのデータなのかさえも判然としない場合もあります。さらには事前に作為的に歪曲された情報が、仮説なり証拠なり結果なり考察なり様々の体裁で顔を覗かせます。そうする意図が善意であれ何であれ、基礎的情報そのものよりもそれに基づく主観的考察のような副次的情報の方があたかも基礎的情報という見え掛かりで流通する場合も割合として少なくはないです。コペルニクス以前よろしく、天の方が廻っているべきだというそもそも論で成される情報では、やはり良質の変化は期待できません。

こういった混淆な状況が生まれざるを得ない背景事情が課題としてありながらも、またこの課題の解決を望めないとしても、それでもなお経営判断の歩止まりは最小限に抑えなくてはなりません。
この課題の避け方として考えられる方法のうちもっとも極端な物は意思決定者自身が直接基礎情報の収集にあたるというものです。もしも気力と体力が伴うならば直接情報に面する取り組みを実行したほうが、よりよい結果を導くことは明らかです。しかし現実には、労力・時間・能力の問題で直接の操作が難しい場合が殆どのはずです。難しい場合の代替策は、実績があって信頼のおける第三者へ基礎的情報の収集と明示的なルールに則った情報整理ならびに結果の報告を依頼することが実現可能なベストの手段になろうとおもいます。この場合の依頼すべき第三者の選定については、なるべく少数、 1 名〜数名のチームがよく、なおかつ適切な意思決定そのもの以外とはなんら利害関係のない状況を用意してやる必要があります。これを社内でこなす場合には本来のありどころたる経営企画室で業務を持つ、経営企画部門がないなら社長直轄のプロジェクト化するやあるいは新規事業開発部門を設置することになります。内部を見渡して、頭数なり適正な人格なりの面でリソースに喘ぐ場合には社外のリソースを頼むのでもよいはずです。
選任あたって、いずれかの経営メンバー、事業部門の執行役員、部門長なりといった客観的でもない第三者でもない者を選ぶことは、信頼を寄せ合う理由にも寄るとは思いますが、基本的にやってはいけない類いの人選だといえます。

基礎的情報の質、量の問題とは別で、意思決定そのものあるいは経営会議に関する難しい問題もまたあります。決めるという部分での課題です。
専制的にやる場合を除いて、経営の先行きに影響を及ぼす水準の一個の意思を決定する際には、例外なく、賛成者と反対者があります。その中間にどちらでも構わないという浮動票も多数あります。賛成ということにしたって何から何まで完全に賛成というようなことは九割九分なく、賛成だが時期が違う、賛成だが内容が違う、賛成だがやり方が違う、賛成だが役者が違う、賛成だがゴールイメージが違う、賛成だがリソース提供はできない…という場合の方が殆どだとおもわれますし、この賛成の場合と同じようにして反対ではあるが内容、方法、役者…次第では賛成に回るという文脈もまたあります。さらにどちらでもいいのだが…もおそらく同様の文脈が見込めます。
たった一個の意思決定は、無限の基礎情報と、複数の賛成/反対の意向の数の比で決まりますがもう一段掘り下げたところの個々人の胸中にはすべからく賛成の/反対の「理由」がつきまとうものです。この「理由」のあるべき姿は言うまでもなく全体最適に関する事柄であるべきです。
しかしながら実態として、全体最適などという殊勝な動機で理由を述べる人物はボードメンバーといえどほとんどありません。大方の場合「理由」と強い相関を示すのは主体の個別的な利害です。主体の立場へ、役割へ、未来へ、ノルマへ、日銭へ、支払うべき労力の量的変化へ、今回の意思決定がどのように作用しそうかという事柄が理由と意思決定との間柄です。仮に役というものを前提に据えた場合、こうした個別的な機能の代表者としての利益担保の視座でより有利な一票を投じる、あるいは工作をするという行為が、果たして望まれるパフォーマンスなのかといえばまぎれなく望まれるものではないわけですが、全体益に則って情報を処理することを訓練されていない単なる素人であるという理解に立ちかえれば、それは決して異常な行為ではなくむしろごく自然な思考の産物であり同時に人間性むき出しの本音のところだろうとおもいます。
個別の機能体としてのメリット/デメリットを先決として、或いは手短に呼ぶならせいぜいよくいって部分最適のために、全社の未来のビジョンと収益性を左右する意思決定を具として利用し、いずれかの方角へ一票を投じるあるいは同方角へ関係者を誘導する工作を働く、そのツケはこの上なく高いだろうとおもわれます。が、経営組織にせよ、事業組織にせよ、ある種民主主義的な下敷きを是として運営されている以上は個々の欲得による一票は妥当性あるとせざるをえないところが多分にあります。

そのようにして立場の数だけ関わる人間の数だけ「理由」がテーブルにのるり、より有力な理由のトーナメント戦の様相を呈することになります。それら一つ一つの理由を全てつまびらかにしてどの妥当性について理解の足並みを合わせ、着地を迎えるべく話し合いを持つというプロセスももしかすると不可能ではないのかも知れませんが、まったく気の遠くなるような道程になることは間違いないだろうと目されます。世の常として、経営の重要な指針の一つにスピードが位置しているには、ちゃんとそれなりの訳があるというものです。意思決定のスピードが競争環境にあって肝要である以上は、無限の時間を必要とするかもしれない手法は採ることができません。全部の理由をテーブルの上にのせてみるというボトムアップのやり方は自動的にほとんど全く許されないのだとおもいます。あくまで全体最適、あくまでトップダウンで事を推し進める必要性はこの辺りにありそうです。
となると、トップダウンをスムーズに実行するための重要な、そして最下限のアクションは、説得、根回し、調整、ネゴ、握り、もしかしたら特別の待遇、悪くしたら袖の下といった世界です。改めてこうやって書き連ねてみると殆ど良い印象はありませんが、これらは全て全体最適に対する合意形成のための単なる方法の話なので、優先度の高い一個の意思決定に際しては、倫理と予算の範囲内で、こういったことを水面下で進めるというのは、正式にアリだとしたほうが現実的なんだと考えます。実際に計算したことはありませんがもし真っ当にコスト換算したならばこういった水面下の動きにかかるコストは、そうしない場合に失われる利益よりも比較にならないくらい小さいものだろうと推察します。とはいえそういったことまでを事前に織り込んだ予算編成は容易ならざることですから、実践に疎い経理実務担当者であれば、そういう手合いのことは嫌がることが予測されますが、それでもなお可能な範囲前向きに考えてみていいと思います。

再び話を本筋に戻します。さて変化の必要は十中八九ある、だから変化のための動きをとる、何をやるかは知らないがそれなりの予算確保を済ませた。方角ははだ決まっていない。やりたくないことは計画に入れないでくれ。基礎的情報の収集は妥当性なく、その内容に保証なし。意思決定の現場には参加は求めない。この地点から一緒に走り出し始めましょう、という。
この地点から一緒に走り始めるということは、どこまでの深さでの関与が許されるかはともかくとしても、強い影響力を持つ関係者各位や関係者間利害の調整の具材を作り上げることを手始めとして、実際に関係者間利害調整にあたるというのに相違ないはずです。今、冷静に振り返れば、それに相違ない。

さあ方角を示してくれ。やったことのない領域へ挑みかかる足がかりとなり、同領域において既に成功しているプレーヤーよりも優れた内容で。数多ある役員たちの「理由」をねじ伏せる魅力で。個々の利に聡い者たちの首を縦に振らせる求心力ある企画で。社内の誰も今より業務量が増えない計画で。社内に既保有の技術の転用の範囲で。見たことも無い成長曲線で。全く不可思議な利益率の皮算用で。既に決めてしまった予算の範囲内で。それが何かはよく判らないところの当社「らしさ」を理解して。さあ、さあ、さあ。

まあ、上記は半分は冗談ですが。夢広がる事業アイデアを数多く起案することや、実現の可能性が究極的なレベルまで高められた事業計画書を描くことは今ではなくこの次のアクションとして、まず手始めは内部関係各位の利害の洗い出しとその整理からとなります。船をこぎ出したい人、その意見。実はこぎ出したくない人、その意見。どっちだって構わないがとにかく飯の食い逸れは御免だと思っている人、その意見。必要とあらばバナナが好きなコミュニティの意見も。

規模の大小を問わず事を成し遂げるには、前段にも後段にも各々幾つものステップがあるけれど、なによりこの利害関係調整の段階について、実は個人的に認識不足と力不足とを猛省しているところがあります。
たとえばボードメンバーへの初期のヒアリングひとつをとっても、たとえその体裁が一対一の面談であったとしても、面談の構えが公式である場合人は腹の奥底にある本音は曝け出してはくれません。彼らの立場なりの、ポストなりの、体裁の整った上等な耳障りの良いしかし漠然とした事柄しか口にしてくれません。事業担当、業務担当でなく経営担当者である彼らにおいては、平生から己が言説の機能性や、あるいはプランの実効性などということよりもむしろ、さぞ立派らしくあることの方こそが主たる業務であるというようなマインドセットを持ってしまっている場合があります。(そうであることの妥当性を問いただしてもあまりなにも変わりません。)むしろ立派らしいからこそ、経営の周辺を彷徨くことを許されていると考えている節もある。
万事そうというわけじゃないと思うので少々穿ったような見立て方だとは思いますが、実際問題「役」者という商売ではそういう側面を求められるシーンは多分にあるでしょうし、職務に関する認識もやむを得ない実相といえるかもしれません。ともあれそういう職務への向き合い方を念頭に、そういう立派らしい心理要因が働くことを前提にしながら、なおかつ本音を吐露させることを目指すならば、非公式のヒアリングを開催する必要があります。
このヒアリングの名目は、たまには憂さ晴らしに行きましょうよ、でなくてはならなりませんし、会場は会社の最寄り駅から一駅以上離れた場所でなくてはなりません。もし会社から最寄りの居酒屋なんかで設定してしまったら何が起こるか。驚くほど漏れなく皆がみな、会社関係者の存在をチェックする様子を目にすることができますし、やはり本心は聞き出す収穫は得られないはずです。

また脇道ですが、先に「強い相関を示すのは自分自身の立場へ、役割へ、未来へ、どのように作用するか」で意思を固めるという風に書きましたが、実は自分自身に関すること以外でもう一つ凄く強い相関がある因子は「あの取締役/役員/部長/部門がダメだから・・・」という他者非難の気分が挙げられます。他者への非難を動機にして不信頼を解消するための方策として、全社水準の意思決定を具材に見立てて、この意思決定へかなり能動的な関わりを示すケースがしょっちゅう起こります。とある人物にとって誰が信頼できない人物かというリークは、それはそれで相互の利害関係を読み解くヒントとして非常に有益な情報ではあるのですが、とはいえ否定から生まれるビジョンなんてのは見聞きした試しがありません。人物への否定的考えまでをも意思決定の材料に組みこもうとすれば途端に絶望的に出口の見えない迷路に塡まってしまうことになりますから、そういった手の情報の活用はせいぜい人間の相関図理解にとどめるのが妥当とおもわれます。またこの問題の根幹は、どちらかというと平生採っている人事考課制度なり権限-責任なり債務-債権の厳格な管理による解決課題と据える方がスマートなんだろうと考えます。
ともかく、他者非難のために、全社の意思決定やビジョンの解釈論は避けた方が無難です。

再び話を戻します。それほどまでに自身の発言が周辺へ及ぼす影響について繊細な心理で職務職責を果たす彼らです。統治のための統治こそが自らの安寧の源といっても極端ではありません。彼らの特別繊細な情緒を、こちらが感度高く見極めて、本心を吐露できる環境を用意し、心から打ち解ける間柄を築くことが、まず最初の重要な段取りであり任務であったのだなと、今になって振り返ればではありますが、判ります。間違いも歪もそれもこれも全て含めた思いの丈を吐露しきったうえでないと、純粋に全体最適へ向けられた意見を聞き出せる道理はありません。このプロセスを経ないと、各意見、各理由、各賛否を読み違える可能性がもの凄く高いです。彼らの生きている生活空間、席から半径 10 メートルとそれから参加会議体のいつもの面子等に対する不信や不満は、いつも当の本人にとって最も気づき難い形で全体最適の皮を被って本人の意見へ紛れ込みます。ですから、情動に関する思いを聞き出し、これを除去しきったところでないと、基礎的情報は含む意味なりコンテクストを違えてしまいかねません。果たしてそんなことが可能なのか?といえば、道理としては可能、はじめの方の足がかりは上記と言えますが、実践水準の動きとしてはやってみなくては解らないところです。最低でも単なるガス抜きにはなるとは思いますが、動きを嫌う人から圧力を受ける可能性もゼロではないでしょう。

どの会社でも内部的に最もありそうな例です。製造などコストセンターの統括者は、販売などプロフィットセンターの統括者に対して強い不信を抱いているケースはとても多いです。不信の向きが反対の場合も同様に多いです。そうなってしまう力学についてですが、往々にしてコスト側は自身の製造能力の限界を棚上げしながら販売側から考えられないような無理を押しつけられていると嘆いています。プロフィット側もまた自らの販売能力のなさを棚上げして余所よりも製品に魅力が足りないと嘆いています。どちらともが自分の正義を守るための思考をとります。俗にセクショナリズムと呼ぶところです。
冷静かつ客観的に、あるいはMBA講義の中で、捉まえたときには、誰さんかどうであるかに関わらず、縦割り構造上の悪影響としてセクショナリズムへ傾倒するのは致し方ないところがあるわけですし、紆余曲折の果てに見える真実は最初から相互に力と知恵を寄せ合い乗り越えるよりほかに成績不振の解消の手立てなのは全員承知しているところなわけです。ですが、強烈な当事者意識と利己心がたどり着くべき真実への道筋を邪魔して、学生にすら容易に理解できる自ら身を置く構図の把握に及ばないわけです。これは経験、能力の問題と、もう一つには先天的か発達心理的なレベルでの自制心にまつわる問題や、ちょっと文学的ですが気品なり気位なり、正しい意味でのエリート意識とその債務にまつわる問題が関わっているようにおもわれます。

経営に賭けている、職責へ一所懸命である、成果に貪欲である、サバイバル意識に富むということは、どれもそれ自体は利益集団の一員として大変頼もしい優れた特徴といえます。ですがだからといって事柄を感情的に理解し、直情的に振る舞い、隣人に対して好戦的で、組織内部に諍いの種を蒔く、果てはのの知り合い、恨み合い、奪い合い、蹴落とし合うなどということは組織としては歓迎されたことではありませんし、通常そういったことは幼児期以後の集団生活の経験を経て淘汰洗練されていなくちゃ大変困るわけです。それでも非常に残念なことに、多くの会社の中ではこういった問題は耐えることがありません。良きにつけ悪しきにつけ、それだけ人間は先天的にも後天的にも多様性に富んでいるということです。
ひとつ構造的な問題があるとすれば、これは大多数のものわかりいい精神的に落ち着いた従業員/部下の存在が、幸か不幸かセーフティーネットの役を果たし、かたや一向に他者のコンディションを意に介さず、我の赴くままに振る舞い、巻き込み、放り投げる、都合の良い嘘を口走る少々幼児性の強い経営者/上司の安全を、期せずして、担保してしまっているということは挙げることができそうに思えます。
なぜこの構図が起こりやすいか。それは意思決定力と我の果たす機能が非常に似たもので、紙一重であるためなんじゃないかと思います。本来意思決定は常人の域を越えた精神力で物事を決定し実行する(させる)行為です。ですから並の人間、並の決心では及びません。普通の人格の背負える範囲では、1,000 名や 10,000 名の仕事と未来へ責任を負える道理が無いわけです。せいぜい果たしたとして首を差し出す程度のことですが、それで 1,000 名や 10,000 名の何かが購えるかといったら、本当に何も責任のとりようなんかはありません。しかしたまに、あたかも責任が負える風情でもって、決められる人というのがいます。そういう人物像というのは直ちに意思決定プロセスの上流の方へと召喚されやすい要因となります。が、その大半には、決められる背後に認められるべき責任への決意は見当たらないのです。これが大半です。つまり無謀な勝手を述べ立てているに過ぎない。仮にそこを見透かさない人事をすると、こういう構図、こういうケースは頻発するに決まっています。

ともあれ文字通りの人情として。全体的な構造の中で、自分が相手がどう位置しているかについて理解し、理解を示しあうより先に、主観的、利己的思いからお互いの間に不信が生じますし、この不信を解消する方法へ強く頓着する思考に縛られます。不信の解消方法は、本来は互いの良い点を評価し合うことからはじまるものですが、ここでは少なくとも相手を沈黙させること、酷くなると排除することへと向かいます。利己的な諍いから一歩引いた優れた代表取締役が両者の間に立ち互いの手を握らせるという、文字の通りの取締役を果たすかもしれません。が、それは全く生産的ではない職務です。しばらくの間仲裁役を勤め続けるとこができたにせよ、いつかは右手か左手かのどちらか一方の手を放さなくてはならない日がやってきます。それにそもそも、たとえ短い期間であれ、固く手を握って二人を結びつけようとすることが職務の本体になっては、社業にとっては手痛いロスです。程度の差こそあれ、こういった類いの問題はどの会社でも生じる出来事といえます。所詮はどちらにに転んだとしても全社の利益にはなりそうもない、この後ろ向きな諍いが社運を決める大切な局面に関与し影響するようなことは阻止するべきです。

さて個々人の情緒の件から一旦話を引き戻して。公器たる会社の市場内における役割の件に戻ります。
すごく大雑把に表現すれば、全社の売上げは会社の社会的機能に対する成績表のようなものです。なので売上げが下がるという状況の読み解き方は、以前ほどには当社のサービス、事業、らしさや独自性は評価されにくくなっていて、ともすると必要性が薄れつつあるトレンドがあるということです。どうして以前ほど当社の機能役割が評価されず、必要とされなくなったか。

たとえば従来、流れる小川のせせらぎの下手に立ち、蕩々と流れ込む水の恩恵を当たり前のように受けることができていました。が、近頃はどういうわけだかその水量が減り、これ以上減るようなことがあると暮らしへの悪影響が懸念されます。みすみす放置するわけにはいきませんから何か手を打たなくてはいけません。まかり間違ってウチの水量が減ったと言うことはおしなべて世界中みんなも同様に困ってるだろうなどと呑気な口上を唄っていても状況は一向改善しません。有効な、できれば効果的な手を打つためには、原因を調査し特定する必要がありますし、特定された原因に呼応した解決策を発見しなくてはなりません。まずは水量が減り始めた日付まで遡り、その頃川上で起こった変化を知ることです。
天候不順で雨が降っていないのかもしれません。河川が二手に分岐したかも知れません。山の保水能力に問題が起こったかも知れません。あるいは川上に集落ができて脇に水を引いているかも知れません。あるいは他の原因があるやも知れません。ここで挙げたそれぞれの原因に対し、採るべき対処は個別に全く違うものとなります。原因にマッチしない間違った解決策を充てがっても時間と費用と労力を無駄にするだけです。

このことを社業に置き直せば、一般社会の部分か全体かが、政治や経済やテクノロジーや流行やの何かしらの影響で従来とは様変わりし、この変化の中で、たとえば競合商品、類似サービスが沢山誕生したかもしれません、同じ目的を叶え得る全く違った切り口の代替品が台頭したかもしれません、一般消費者の生活様式の変化に伴って消費ニーズが別へシフトしたかもしれません。ある程度大きく括った仮説を立て眺めることができます。これら仮説の何れかに確からしさが確認できたなら、会社機能が必要とされなくなりつつある原因は、時々刻々変化する社会の一翼として、折々の暮しと必要の変遷の関係者として、自社が時代と歩調を合わせて前に進むための牽引役たる取り組みを怠ってしまったのだと、そんなような捉え方をしたいところです。ただ川下に座り、ただ水が流れてくるのを待つという姿勢よりも、多少なりとも有利に事が運びそうです。仮に、下がりつつある売上げを上向きに変えたいなら、原因を捉まえ、いまよりも川上へ転居するか、川上の居住者と交渉・結託するか、貯水を考え治水工事に乗り出すか、あるいはまったくの新天地を目指すか、なにかしら自身でコントロールが可能な環境へ向けた能動的な取り組みを選択したいところです。これらの、あるいはそのほかの、あらゆる手立てで全くどうしようもない場合には、少ない水の量で生きていくやり方を研鑽することもまた一つ方策としてあるのだと思います。

必要性低下の原因特定はもちろんとしてですが、社会的機能役割を時代なりか臨むべき未来なりにチューンをする、場合によって大き目の刷新をする、事業構造と収益構造のそれぞれの最適化を今一度考えてみる、サービスのあり方や提供スタイルを見直してみる。気づきと開始のかけ声こそ遅れはしましたが、こういう手の取り組みに着手しなくてはならない時期がやってきてしまいました。取り組みの例としてですが、時代の要請に最適な社業・事業の実現を目指すのか、競合に競り負けない競争力担保を目指すのか、代替品市場へ参入するのか。そういったことになろうと思います。
現業ではなく新規事業を主体にして考える場合には、社業にとってどこに次の飛び石を置くのが最も現実感があり、また従来事業なり経営へシナジーが見出せそうか検討と評価を重ねることになりますし、この相互作用の度合いにも色々なバリエーションを選択することができそうです。或いは新規事業を育み、切り出し、売りに出すことまでをも想定し、割り切った距離の飛び石を置いてみる設計もまた不可能ではないはずです。遠くの飛び石は一見難しそうではありますが、体力的な可能不可能とは関係なく、案外と知恵、人脈、ノウハウが社内や近しいネットワーク内に眠っている場合というのはよくある話です。

このアタリつけて実行と実現の可能性を煎じ詰める工程というのが、ようやっと経営企画の本分に相当するのですが、ようやくここまでたどり着いたとしても厄介な問題はまだ潜んでいます。社内に経営企画部門が設置されている場合でなおかつその部門が本来の機能を果たしていない場合です。
本来企画という事柄は未来をよりよくすることへ向けて画策される企てのことをいいます。が、彼らはどちらかというと経営管理の方の業務、平生の PR/IR、場合により上場準備のための整備実行などが日々のルーチンになってしまっています。これらは過去から現在に関する業務です。すると未来を紡ぐための活動は後回しにされて、そのスペシャリティはとうの昔に錆付いてしまっています。
過去から現在を掌握し運用する業務は組織運営においてまぎれなく重要な勤めなのですが、そこの重要さと未来を紡ぐ上での重要さとはほとんど何も関連しません。未来のための意思決定においては、彼らの握る歴史事実に関する膨大な量の情報は、基礎的情報のごく一部としてしか役割を果たしません。時として、過去から現在を知っているということが自尊心の肥大や万能感を呼び、的外れのプライドが、期せずして意思決定に悪影響を及ぼしてしまうことがあります。誇張していえば、この会社の全てを知っているのは誰あろう我々だ。経営者ですらも及ばない。という官僚的な位置へ行きがちなわけです。実際に彼らは実務家ですからかなり妥当性の高いところの着地点を予測し、その根拠も示してくれる場合が多いです。それは全社の安寧を思えば大変有り難い働きに違いありませんし、そういった渋味のようなもの好む経営者や役員も少なくないように思います。が、この現象は渋味が醸す安心感を望む者同士のシンパシーという以上の意味は特にありません。事実に根ざしながら、見落とされたかもしれない間隙を縫い、創造的でユニークなストーリーで経営と事業の成功を導く思考という事柄とは実のところ無関係です。ここで行われていることは、成功と成功へ向けるべき労力の閾値を、文字通り渋く見積もるという手続きです。

であればこそといえるでしょうか。彼らはとかくよく知られたところの戦略に関するフレームワークを多用、乱用することがあります。そもそも、業務の性質上かなり信頼性の高い、真面目な人格が職務と業務に就いていることが多いのですが、真面目過ぎるというのもかえって困りものです。事とあれば、SWOT だ、3C だ、4P だ、コアコンピタンスだ、5forces の類いの分析手法に関するフレームワークを持ち出してきます。悪い場合ですと、あたかも当然の協働として各事業部門へ SWOT を強要したりもします。目に余る場合に限り当該のフレームを使うならば一意性が不可欠であることを言っても聞きません。全員が機会と脅威と強みと弱みについて一家言あるはずだしあるべきだ、なぜなら事業の主体は彼らだろう、という姿勢を曲げないわけです。いよいよ業を煮やしそれはあなたこそが掌握してなくちゃならないことですよと水を向けても、理解が出来ないようです。またそのフレームワークで導かれる結果は、今望まれるテーマとその解決には結びつかない内容になりますよといっても、進み始めた作業を止めようとしてくれません。

実際のところ取り扱うテーマによって利用価値のあるフレームワークは限られますし、また、求められる回答によってはフレームが一般化され流通していない場合の方が多いといえます。さらに利用するフレームが何であるにせよ、それが考えを整理し客観的事実として多数と共有するための単なる一個の道具すぎないという俯瞰的事実を今ひとつマッピングできないようなケースは大変多いです。にもかかわらず、拗れる場合にはポーターやコトラーや原著を引き合いに持ち出される始末となります。方法論の定石については教科書に沢山載っていますが、これから切り開こうとしている未来については、残念ながらまだその教科書には載っていません。自らの手と頭とで法則を見つけ出して、発見か発明かしなくてはなりません。仮に適正が認められ既存の定石なりフレームを活用するにしても、その広く知られた方法論は、市場内のどの競合たちもまず真っ先に立脚するスタート地点なので、もはや基本のきとしてしか機能しないと捉えるべきだろうと思われます。ともあれ素直さや真面目さも度を超すと、大変危険なものなんだと痛感させられるケースです。
実は、冒頭にあげた「らしさ」や独自性の件も、こういう真面目さから来る帰来は認められました。なんとも勉強がよく出来そうで行儀が良い、そして実践においては甚だ頼りないことだとおもいます。

望まれる増収増益があり、人間関係の調整と転換に後ろ向きな経営陣があり、従業員技能の転用の可能性について深く考えない役員があり、隣の部門に不信を強める執行役があり、利己的な動機と判断に成功体験を得てしまった部長があり、業務内容を一部たりとも変えたくない個々のスタッフがあり、真面目すぎる経営企画部門がある。
それそのものがごく自然な人間が集合して成り立つ組織の実像について、今更ながら思い至ります。市場がどうか、社史がどうかということよりもまず真っ先にこの事実の認識を持たなくては課題解決の真正面に座ることは適わないと、反省するところです。この登場人物の全員が、会社は、組織は、あの部は、あの人は、ウチの商品は、ウチの広告宣伝/PRは、変わるべきだと口々に言っています。あらゆることが良い方向へと変わることを切望しています。しかしまた同時にこうも想っています。

だから、”自分以外の” 全てが変わるべきだ。

ビジョンの喪失、調整への障壁の高さ、利己心、出世欲、内部的な鍔迫り合い、会話不足、理解不足、セクショナリズム、なにより業務職務によって疲弊しきった彼らの希求する変化とはつまりはそういうことです。
彼ら側の切り口で言うなら、ことほどさように貢献度の大きい自分だけは決して変わらない。変わる必要が無いし、むしろ変わるべきではない。自分はこの会社の歴史と共にある古参で、陰日向この会社を支え、仕事ぶりはこの上なく真面目で、誰より秀でた技術を備え、いざというときに休日出勤も夜を徹する仕事も厭わず、上司へ面と向かって不平を言うことすらせず、この会社の中でやってきた。だからきっと現在の無様な有り様は自分以外の誰かのせいであるし、そこのとについて他者批判という形ではあったとしても訴えてきた、正しく現在を占ってきたはずであろうし、しからば今持つ未来への予感も正しいはずです。変わるべきは、これまで長らく尻を拭ってきてやった、世話を焼いてやった、自分を取り囲む世界と人々の側だとしか捉えようがないじゃないか。

大鉈を振るうタイプの改革でない限りは、まずこの信条の理解を出発点としなければ、会社の機能役割の変化、これと紐付いて組織構造なり配置の変化は、拗れにこじれ全く収集のつきそうもない愛憎劇へと行き着いてしまいます。無論、前段にあるべき変化へ向けた妥当な情報収集・整理・調整はできませんし、変化の事運びも描けません。この出発点を十二分に承知した後改めて、(言うところの)当社なりの思考の最前線、当社が捉まえる当社の独自性、当社が思い描く市場の模様などというものは全て、もう一度その信頼性を確かめられなければなりません。それらが何らノイズなく真っ当なやり方で収集・整理され、必要十分な量揃っていることが確かめられれば、基礎的情報として採用します。もしも精査されていなければ、個々の情念、ノイズが混じった主観的情報と位置づけ採用を見送る必要があります。これの採否に見誤りがあると、文字通りに、百害あって一利もありません。

過去からの遺物、ノイズ、私的感情を混ぜ込んでしまわないように、この出発点に限っては多少極端なくらいの割り切りを持って、全くの更地から実相を調査し評価しなおす方がよほど目的に適った正しいビジョンとマイルストーンを描くことができそうですし、近道もできそうです。ひいては企画内容と企画の実行可能性は高まるように思えます。当然これに伴って着地たる成果の実現可能性の精度も高まるはずです。

と、社会観、会社観、人間観をのらりくらり綴ってきました。都度の状況をどう理解するべきであったか振り返り、そして何を見極め切り捨てるべきだったか、自分はどう職責を果たすべきだったのかに関して内省を、思うに任せ連ねてきました。
当時を振り返れば、人の顔色を見すぎていたところがあります。声色をききすぎていたところがあります。本音を引き出せなかったところがあります。利己心を原動力にしたシステムへ転換できなかったところがあります。若手の信じ込みと暴走を止められなかったところがあります。フレームワークに使い方があることを伝えきらなかったところがあります。試算に則った目標管理を実行させられなかったところがあります。誤った人事を防ぎきらなかったところがあります。完成された企画へ関係者の思いを修練できなかったところがあります。計画書通りに開発進行を統制できなかったところがあります。甘い市場調査を看過したところがあります。

また、かなり個別的なものではありますが、実際にどう振る舞うと良かったかということについては、まず第一に人だということ。それから経営者という属性と、事業従事者たる従業員という属性と、それらの心理的構図と制度的構図とをよりしっかりと見極めて挑めばよかったと思っています。特に経営関係者に関してはその度は強いです。
経営者・役員等の利害関係の各位が胸に抱く主観的な利己心に関しては最大限の配慮が支払われるべきです。例えば、肥沃な土壌を用意することが、収穫を増やし、収穫物の質を高め、雇用を活性化する最も美しいやり方であったとして、さらには、仮に肥沃な土壌作りなり確保なりが経営者の手腕の見せ所であるとして。それでもなお、経営において土壌の確保を怠るであるとか、軽んずるであるとか、土壌の質を問わない土地転がし的なやり方を選ぶだとか、市場の競争原理に則って評価した場合明らかに誤りのある方法を選んだとしても、それでもなお、それが直ちに違法であるだとか人として倫理にもとる行為かというとそういう責めを受ける道理というのは実は存在しないわけです。利益を実現する方法の選択は、何を採ろうが(株主によって権利を剥奪されない限りは)どこまでいっても経営者の自由です。口の悪い言い方にはなりますが、たとえバカであっても、マヌケであっても、クズであっても、経営者は経営の裁量を振るいますし、それは違法なことではないのですから。

利益を出すために選ぶ方法が、たとえ従業員全員の職務業務と暮しを全くの不幸へ導くものだったとしても、利益が上がっている限りにおいて経営者はその責めを負うところではありません。仮に甚だ非効率な方法を選択したとしても、それは業績の低迷という形で経営者自らへ跳ね返るというのが最大の報いでありそれ以上はあってはなりません。また仮にまったくすちゃらかな方法の採択によって、多大な損失や倒産の憂き目を見たにしても、それは単にこの会社にはもう人を雇う体力が残されていませんという単なる結果であって、人間性や倫理観、道徳の質を疑われることはあったにせよ、違法ではないのです。
先にも書いたとおり、平たく言えば、経営者は無能であれ不真面目であれ不義理であれ、経営の実行に関していずれかの従業員から詰められるような言われはなにもありません。そういう構造と関係性を理解したとすれば、経営各位の利己心をどこまでも重んじなくては、会社を取り巻く色々の制度は其れ自体が成り立とうはずもありませんし、従業員として会社に従事することすらも適いません。

だとしたなら、経営の方針がどうである、会社のビジョンがどうである、来期事業計画がどうであるなどという類いのことについて、従業員を絡める必要性がどれだけあるのかというと、そこの必要性は、実は全く何も認められません。強いて従業員を絡める理由を挙げれば、手数が多くて面倒な仕事の振り先として従業員を使うということくらいです。ですから、経営のあるべき姿について従業員から意見など陳述などということは、最初から望まれる所ではありません。
どうしても臨まれるケースは思いつく範囲で2つ。一つには経営陣が現場のオペレーションについて全く疎く、かつそこが経営上の議論の趣旨に相当する場合。あともう一つは、経営に関連する知識か思考かに関してまたは甚だ属人的な内容において厚い信頼関係が認められる場合です。俗に知略家と言っていいでしょうか。が、知略を求められこそすれ、統治と侵攻への口出しは当然求められてはいません。そこの線引きを見誤ると、労使間が大変拗れた関係に陥ります。

また幸い信頼関係によって請われるケースについてさえも、経営者と従業員の別をよく把握し、立場心情をよく把握して、寛容に支援してやるスタイルが不可欠となります。請われたからには価値ある画を描いて応えたいものですし、描いた画に賛同を得なくてはなりませんし、反対者を懐柔する手続きを支援をしてやることも必要ですし、実行上の阻害要因となる事と人とをコントロールする支援もしなくてはなりません。そうでなくては、価値ある企画は水泡に帰すことになりますし、寄せられた信託もまた同様。信頼関係であったり、コストであったり情熱であったりのいろいろなことを水泡にしないために、やれることはいくらでもあったはずですが、現実には出来なかったわけで、やむを得なかったとはいえ、たいへん悔やまれます。

かくして変化への胎動は一時凍結へと至ります。また部分的に滑り出した新規事業開発も同時にクローズを迎えます。果たして中期経営計画は書き換えを余儀なくし、翌年度の方針は従来の事業ををより先鋭化することで成果が目指せるというニュアンスに書き直されます。事業部は売上構成比に基づき人員の再分配が成されますし、従来も随分と絞ってきたはずの事業関係コストの更なる縮減方策の立案と実行が求められもするはずです。

事は済んで後日談ということですが、さて解散となる新規事業へ従事してきた面子はというと、数多の諸事情を顧みるでもなく、自社への失望を禁じ得ない様子です。ある面では期待と資源投下を一身に受け続けた幸福であるはずの彼らが、なぜ憮然となるのか。大きな理由は、やはり人ですから、労を注いだ取り組みを否定を受ける処遇について良い心象を抱けないということといえます。加えて、この間の活動において初めて社会を他社をよくよく眺め、関わり、その行程で余所の新規事業への取り組みやそこへ注がれる熱量や、姿勢にすっかり当てられてしまったことがあります。
一人一人の結論づけは疎らですが、関わった皆が多かれ少なかれ、第二のステージを意識するようになります。余所の会社、文化、環境下であれば、少なくとも当社でなければ、自分は出来たはずだという思い込みが強まるのだろうと目されます。これはこれで、そうではないということに早々気がつく方が良いわけですが、それには大分時間と経験が必要になることです。自ら歩み出し、もう一度二度三度、失敗の経験を経て、どうやら原因は自分にあるぞと、環境の問題ではないぞと、分別を持つに至るより他に気づきを得る方法はありません。
各々のその後の身の振り方はともかくとして。全社の利益、全体最適の視点から眺めると、費用と時間を注いで特殊な経験をさせた従業員が社を去るということですから、大変な不利益です。失敗の経験と失敗の原因が場から消失するということもそうですが、そこに至るまでに身につけたであろう現市場についての理解、各種の分析や開発ノウハウ、社内外の人的ネットワーク、細かなスキルセット等が蒸発するようにして社から消えて無くなると言うことです。
失敗プロジェクトと担当者等に対する処遇は判断の難しいところですが、短絡的かつ感情的な思考を脱して全体最適に照らし熟慮すれば、事に当たった従業員を社に残し活かすことを選ぶ結論づけになるだろうと思います。

ともあれ世の中の変化は止まることはありませんし、社業は永遠に繰り返しの変化を求められます。
会社の経営と組織が変わろうとする取り組みは失敗に終わり、また先発隊である新規事業は解散しましたが、そんなことは歯牙にもかけずやはり世の中は変わり続けます。であれば、会社の経営が変化を止めるということは、再び歩止まりの多い時間の中を漂い、そしてしばらく先になって再び慌てましょうという判断に他なりません。慌てるのは、明後日にしましょうということです。なんとも勿体ないことではありますが、それが人をつなぎ止め、組織全体を維持し、社業の収益を維持する最善の方策ということでの判断なんですからこの判断を信じてやるよりほかの選択はありません。この判断へ信頼を置くことが出来ない場合には、信頼できる他の経営者へ乗り換えることが最もスマートな選択になるはずです。

結びに、変化に求められる事柄について。
経営者と従業員の別を問わず、まず自分が変わることがなによりだと考えています。スローガンを掲げるとか、姿勢を示すですとか、口で言うとか、繰り返し粘り強く言うとかそんなような上澄みとも、要約とも、ダイジェストとも、おいしいとこ取りとも言えるような振るまいは求められてはいません。そんな猫騙しのようなことではなく、自らの信念と行動を伴ってまずは自分が変わることが肝心だと振り返ります。事が経営にせよ、事業にせよ、です。
身の回りをグルリ見渡してみれば、本心のところでこのままじゃヤバい、変わりたいと思ってる面子というのは数こそ少ないかも知れませんが必ずいます。放っておくと芽吹かないかも知れないそこにある種の芽吹きを促すに足りる取り組みを身を以て(くれぐれも口先や、命令ではなく。火付け役でもなく。自分の仕事で、自分の身体で)実行することです。池に投げた小石が立てる小さな波紋が、更なる別の波を呼ぶ構図を信じて、やりつづけるより他にあまり手段はありそうにありません。
立場がどうあれ、口で説明してやらせる、説得してやらせる、目標管理で描いて、命令してやらせる、なんだったらちょっと騙してやらせるなんていう愚行は、架空の理想の世界を自分以外の人格へ強要する行為に他なりませんし、それはどちらかというと変化への拒絶を産むばかりとなります。

経営には、官軍になるより他に、救いはなにもありません。勝てば官軍、負ければ賊軍。そのためには、戦を知ってることも重要ですし、戦局の見立て見極めもできなくちゃいけませんし、要人と通じていることも必要と思います。そういったティップスはそれはそれで大切ですが、結局、自分自身が心酔できる大義、正義はどこにあるんだというところを、常に自らの中で吟味し刷新し続けながら、なおかつ決して見失わないことだろうと思います。それは一般的にビジョンと呼ばれるかもしれません。ビジョンがあってこそ、賛同者も、兵も得られるのですから、これを無くせば瓦解です。もう一つには先頭に立って陣頭指揮することです。スティーブ・ジョブズがどうであった、ソニー井深大氏が、松下電器松下幸之助氏がどうであった、あるいは坂本竜馬がどうであったと先人達に学ぶところは多くありますが、結局は現場とはなし調査研究とはなし経営とはなしに、自らの正義に向けてやれることの全部を、自分がリーダーシップを持って、やるべきだと信じて実際にやる。やらせもするし、やりもする。そういう人物が大なり小なり世界を変えましたよ、という大括りを見誤らなければ良いのだと思います。やるべき事もやり方も、人と時代とそれぞれに違うのが当たり前なのですから違うことを恐れないで、挑みかかるより他に選択はありません。俗に夢中になってるというのはそういうことだと言えそうです。

最期ですが、変わる、ということはどの立場においても多大な労力を要します。この労力の大部分は内部的葛藤に費やされます。この労力をそのまま外部へ、変化のための仕事そのものへ転換できたらどれだけ素晴らしい結果が得られることだろうと思います。素晴らしい結果を得るためには、経営は絶えず経営の仕事をしっかりとすることです。