野口悠紀雄 著「1940年体制(増補版)」を読みました。キンドル版です。
とある書中にレコメンドがあって、興味が湧いたので、手にとって読んでみました。内容は、現在の日本経済の低迷に関して、その原因のありどころ(の一端)として、日本の歴史的な背景、とくに戦時の経済体制の継続を指摘しています。
海外、グローバルを比較参照しながら日本を捉まえるということは、誰しも普段からよく行うところだことだとおもうのですが、政治と官僚制度と民俗の、過去の事情、歴史的経緯、紆余曲折を眺めながら、今を知るというアプローチも、とても重要なことなのだと、意識を改めました。またその視座で導かれる今への理解は、ユニーク、かつ、鋭いです。
平易な文ではない(といって難解ということではないです)ので、読み下すのはちょっと難儀なのですが、価値はあると想います。普段、関連ジャンルを読まない人ほど、お勧めします。
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日本型雇用慣行は、労働者がよりよい条件を求めて他の企業に移る権利を奪ってきたといえる。
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日本の高度成長をマクロ的にみれば、高い貯蓄率に支えられた豊富な貯蓄が存在し、それが次々と投資されてゆく過程であった。ここで重要なのは、企業への資金供給が間接金融方式で行われたことである。
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企業の目的は、利潤追求ではなく、成長そのものになる。このためには、資金を借り入れで調達することが必要であり、また、有利でもある。こうして、日本型経営システムと間接金融は、密接に結びつくことになる。
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これと対照的なのが、マンション居住者である。駅までの距離でも通勤時間でも、借地に比べて遙かに悪条件の地点にある場合が多い。本来は高層化すべき便利な土地が借地で固定化されてしまっているために、止むをえず遠隔地にマンションが建設されているのである。
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本来であれば、生産力の増強は、手段にすぎない。しかし、こうした状況が長く続くと、それ自体が最終的な意味を持つのであるような錯覚が蔓延する。手段が目的化してしまうのである。生産者優先主義は、普遍的な価値観にまで高められた。
このような価値観は、「仕事が全てに優先する」という会社中心主義と巧みにマッチした。
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「日本の高い貯蓄率」は、世界の注目を集めている現象であり、経済学的にもさまざまな分析が行われている。それが、日本社会のもともとの特性ではなく、四〇年体制以降のものであることは、興味深い。
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したがって、「共生」という概念が企業から主張されると、そこには、「企業が共生によって生き延びる」という、企業の生存権に関する独善的な主張が含まれることになる。
しかし、企業が生存権を主張するのは、自由主義経済の最も基本的な原則に対する挑戦である。なぜなら、企業が存続しうるかどうかは、本来は消費者が決定すべきものであるからだ。
1980
それにもかかわらず、円高は国難であるという意見が一般的になる。このようなバイアスが生じるのは、消費者にとって、円高のメリットを享受できる機会が少ないからである。
2024
他方で、特に借地については、現実には、強者の既得権を保護するものとなっている。それにもかかわらず、これは「弱者保護のための制度」と考えられているために、改革が極めて難しい。規制緩和の中で議論されることも、全くない。
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また、規制緩和がしばしば「即効性のある景気対策」と位置付けられることは、この問題に関する認識の浅さを如実に示している。財界からの規制緩和要求にいたっては、単に事業活動の制約になる官庁の許認可を取り払ってほしいという程度のものが多い。
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しかし、ここで、予想外の大きな外的ショックが生じた。それは、一九七三年の石油危機である。これによって日本経済は深刻な打撃を受け、再び全国民が一丸となった総力戦を戦わざるを得なくなった。生産者第一主義、社会中心主義、労使協調路線などは、むしろ強化されてしまったのである。
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したがって、重要なことは産業構造の転換であることが分かる。現在の日本で国際競争力が強いのは、自動車、電気機械など大量生産中心の製造業であるが、これらは急速にアジア諸国に取って代わられる可能性がある。その分野で競争を続けようとするから、問題が生じるのである。
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将来のリーディング・インダストリーの姿を具体的に描くことは困難だが、製造業では研究開発に大きく比重をかけたハイテク産業、サービス産業では情報処理やシンボル操作に関連したものが中心となるだろう。
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したがって、日本にとって望ましい経済の姿は、現状と比べて、つぎのような特徴をもつことになる。
①新しい産業が日本をリードし、また、低生産性分野の合理化が進んでいる。
②公共投資が拡大され、資源配分が海外投資から国内社会資本整備に転換している。
③現在よりさらに円高が進み、消費者の実質消費が増えている。
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ところが、間接金融方式の下では、新しい産業や企業に資金を配分することは困難である。銀行という組織のなかでの資金配分は、基本的に保守的なものにならざるを得ないため、リスクが高く成功が保証されない分野には、資金が流れにくいというバイアスが生じるのである。
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このため、アメリカは、日本よりも、東アジア、とりわけ中国に関心をシフトさせつつある。そして、二国間交渉より、APECやWTOなどを通じる多国間交渉を国際経済問題調整の基軸に据えようとしている。いわゆる「日本バイパス」は、急速に進展する可能性がある。こうした動きの中で、日本は国際的に孤立する危険がある。
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実際、為替政策では、つねに「円高抑制」が目的とされる。その大きな理由は、雇用確保である。新たな産業構造のもとでは、従来の雇用は失われても、新たな雇用機会が想像される。したがって、経済全体としての雇用は確保されるはずだ。しかし、そこに移行する摩擦コストが大きいことから、現在のシステムを基本的に維持したままで雇用を継続したいという要請が、極めて強い。
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つまり、連立政権の成立で分かったことは、これまでの野党も政権党になると官僚のいうなりになるということだったのである。
野党が政権党となって官僚党となると、再び野党になったとき、政権党のときの行動に拘束され、野党として機能しなくなる。(中略)自民党支配の終焉は、選択の幅を広げたのでなく、皮肉なことに、狭めてしまった。このような「総与党化現象」は、政治の自殺である。
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そこで、二〇二五年度における収支を検討しよう。大蔵省の資産と全く同じ考えにたって、推計年次だけを単純に二〇二五年に延長すると、自然増収に頼らず収支をバランスさせるには、税率を一五〜一六%に引き上げることが必要との結論が得られる。つまり、税率九%程度でバランスするという二〇〇〇年度の姿は、「仮の姿」でしかないのである。
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そして、日本経団連は、こうした考えを正当化している。資本主義の根本原理を「財界総本山」が否定し、「資本の論理にまかせてはならない」と主張しているのは、きわめて奇妙な光景である。
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その理由としては、「安全保障上の考慮」などが挙げられたのだが、要するに「外資に支配されたくない」ということだ。外資だけではない。国内資本であっても、身内以外のものに買収されることは排除したい。だから、日本企業は、絶対的な買収に備え、必死に防衛策を固めたのだ。
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しかし、「日本的」と言われるものの多くは、実は古くからあった本当に日本古来のものなのではなく、一九四〇年体制的なものなのだ。例えば、「日本人は農耕民族だから競争や争いを好まない」とか、「日本企業の原型はイエ制度」などという議論がある。また、「日本は金融に向いていない」「日本が強いのはもの作りだ」という考えもある。
しかし、ここで「日本的」と言われているものは、四〇年体制的なものである。