「頭を空っぽにする」というのはよく聞く表現だけど、これを実行てみたことがある人間はどれだけいるだろうか。つい先日これに取り組んでみた。というかついぞ偶然に取り組む事ができた。そのときの感覚は「あれ?これ瞑想?」といったう感じ。
瞑想の方法については世に沢山の図書が流通しているし、僕も実際に何冊か買ったし、そこではいつも精神のしかるべき在り様について説明がなされている。精神の持ってきかたとして姿勢とか呼吸法とかが重要であることも説明されてる。鼻から吸うとか口から出すとか。吸うのもゆっくりだけど、吐くのはもっとゆっくりにとか。最終段階に至っては呼吸すら意識しないんだとか。ホントに?僕は出来たためしがない。というか、正直に言って「精神」って何のことなのかすらおぼろでよく判っていないからなのだと思う。
が、先日偶然、頭を空っぽにすることができた折、こういう風に捉え直した。結局方法はどうあれ、可能な限り脳を無駄な活動から解放してやる=「空っぽ」。おそらくそうなんだろうな。きっとそうに違いない。
僕の場合、就寝時にはベッドに横になってから延々 iPhone なんか弄ぶ。ニュースを見たりする。とりあえずこれをするのは我慢して、ニュースを読む代わりに目を閉じて幼児期の頃の頭の中を再現することに挑戦してみた。そもそも、そういえば今日一日の出来事や過去の出来事のことを思いだし振り返るという脳の使い方をしなくなってから随分経つ気がした。そえこそどれくらい久しぶりの行為なのかもよく思い出せない程。そういえば子供の時には独りで居てもまた理由は無くても、思いだしては、或いは目の前の現実でないことを空想しては、笑ったり哀しんだりしていたような気がする。
して、いつ頃の事を振り返るのがいいか。仮に乳児期とか胎児の頃とかが対象時期として設定できるならそれが一番いいのかもしれないけど、まあ記憶の復元が甚だ難いように思えるので、そんな胡散臭い記憶はたぐる必要は無い。現実的な線として、物心ついた幼児期くらいならなんとかギリギリ想起できなくもない。幼稚園の頃か、小学校低学年の頃か。例えば、自宅の子供部屋で画用紙に絵を描いていたときの記憶、モクモク村のカセットテープを聞いてたときの記憶、「いっき」や「マリオブラザーズ」をプレイしてた記憶、自転車、木登りをしていたそのときの記憶、キョンシーが恐ろしかったという記憶でもいいし、嫌々習字教室に通う道すがらの寄り道の記憶。想起の手がかりがある最も古そうな事柄ならなんだっていい。
ただそのときに強いて気をつけるとすれば想起するべきは出来事の叙述的や文章的や視覚的な記憶ではなくて、そのときの「気分」を今ここで再現してみること。気分を再現することができてまたその気分に1分でも3分でも浸る事が出来たなら、当時の脳が如何に何も考えていなかったか、また何も考えていない時というのが如何に心の軽い状態か、そのことに気がつけると思う。
なにやら怪しげな話を書いてしまっていますが、なんでこんな事を書いてるか。
そもそもからして瞑想なんていうあるんだかないんだかアヤフヤでいかにも胡散臭いものの効果へ期待を寄せてしまっているこの時点で、大人になった今現在の状態というのはとにかく絶不調なわけだ、と思う。ところでそもそもなんで絶不調なのか?
きっと明日までに決めなくちゃいけないこと、明後日にやらなくちゃいけないこと、来年までに方向性を見いだしているべきこと、10年後に達成してなくちゃいけない何か。またそういう事に関連して生まれる不安、悩み、解決困難であることの承知、それと言い訳の仕込み。或いは、し忘れ、し損じと後悔、怒り、失望、恐怖、羞恥などなど。なにかこう人生のPDCAサイクルみたいなものが厳として在って自分はそれが上手に回せないダメな人間なんじゃなかろうかという幻想に支配されてしまっているから。
はたまたより具体的に、いまやってる業務は何の役に立つ?(役になんかたちそうもない)この客はいつ金になる?(ならないじゃないか)この企画諸は誰を喜ばす?(喜ぶやつなんかいない)この情報収集は俺にとって意味がある?(無いに決まってる)俺はいつ同期のライバルに追いつけるのか?(もう間に合わないね)どこの上司が俺を理解してくれる(…残念でした)。そういう手合いの思考がいつもいつも、仕事をしているとき、遊んでるとき、本を読んでるとき、電車に乗って移動してるとき、土曜日、日曜日、そして果ては眠ろうというとき或いは眠っている真っ最中にも、脳の活動の一部を占拠し続けているから。
だから、何時何処で何をしてても、大人は心配事ばかりに囚われて気分が晴れることなく、不調。これが長く続けば絶不調。
大人がそうであるのに比べて。僕らはみんな、あのときはとにかく絶好調だった。何故そうだったのか。大人とは真反対で基本的に頭が空っぽだったから。昨日も明日もなく只この瞬間にしか生きてない。困難と不幸を知らないし、それらを危惧することもまた知らない。宿題もヤなことも直ぐに忘れちゃう。何かに夢中になれば、ごはんもおやつもゲームも日が暮れるのも視野内から全て消え去ってしまう。今大暴れしてその後直ぐに寝てしまう。寝てしまう予感なんか抱きもしない、絶対寝るくせに。という具合に頭空っぽ。
であればこそ、熟睡できるし、大爆笑できるし、無駄に塀の上に上ってみたくなるし、だから(「誰が何者か」なんてことじゃなく)他人そのものに対して素直な興味が湧くし、すぐに話しかけちゃうし、直ぐに友達になってしまう。これは大人の尺度で測れば概ね好調と言える状態だと思う。中畑くらいの絶好調。
ざっくりといえばそういう理屈。屁理屈に従って短絡的に答えを導くなら、頭空っぽ=絶好調。
従って今大人である僕らが、文字通り敢えて頭を空っぽにすると、いい眠りが得られる感じかもしれないし、物事に対していつも前向きで挑戦的でいられるかもしれない。そして周囲の人からたまに失笑を貰えるかもしれない。もしもそのように在りたいなら、聡い生き様を捨てて、今今の流れや興味に身を任せてみることに価値があるかもしれない。それは、他人の懐に金があるとかないとか、他人が自分より優れてるとか劣ってるとか、経済の先行きがどうだとか、政治がけしからんとか、株価がウンコだとか、グローバルがアレとか、年金がソレとか。そういう世事を知り疎んで生まれる怒りとか妬み嫉み羨みとかから脳の活動を自由にしてやること。格好良く言えば、自我からの解放とでも呼んでみましょうか。
現代ではインターネットという道具でだいたい何でもリサーチして調べることができてしまう。そうして自分以外の他人について(昔とは違って)かなり容易に知ってしまうことができる。そして一度その手の情報を得てしまえば必ず自分と比べてしまう。比べてしまったら嫌でも拒んでも心は揺れる。し、底なし沼みたいに際限のない柵(しがらみ)に塡まってゆく。塡まってゆけば人生が楽しいんであるとか、幸せであるとか、そういうことは言ってられない。なにせ阿鼻叫喚の足の引っ張り合い、蹴落とし合い。それとは気づかずとも状況は既にプチ地獄絵図。産まれただけで、死んでないだけで、そこそこラッキーなくせに、そういうことに気が回らなくなる。
だからこそ「僕ね、いまチョコレート食べたい!」と言うのと同じくらいストレートな動機で「僕ね、今、人の役に立ちたいのです!」と言える主体的な自分じゃなきゃいけないね、と思う。そのために頭空っぽタイムは、必要。というか、誰に頼まれもしないのにヘンテコな情報に雁字搦め柵んじゃってりゃ、自ずから不幸に身を浸すようなもの。