ハシビロコウほどでないにせよ、よくわからない、謎の人扱いを受ける、あるいははっきりそういわれることが度々ある。自分では、観たまま話したままの非常に解りにくい人格と認識を以て生きている。のだけど、傍目にはどうやらそうではないらしい。客観にして解りづらいという訴えがあがるのだから、きっと、そうなんだろう。さて、解りにくいその根源は、何だろうか、なぜだろうか・・。さほど本腰を入れもせずに考えたところ、コレじゃないかな?と思うのがあった。
コレ、とは。端的に言えば、話が下手だ。口ベタだ。自分語りをすることはほとんどない。出来事の話はよくするし、お題について考えを言うこともする。この場合には、同席の他の人よりもずっと口数多く話す。なんだったら、図を書いたり、即席のマインドマップや提案書すらをも示すこともある。が、自身のパーソナリティについて深々と語ることは、概ね、ないといっていい。その代わりというわけではないが、人の話は大変よくきく。黙して差し挟まず、しっかりと傾聴する。人のことに、テーマそのものに、強く惹かれる。
であるからして自然と、営業の仕事などは向いていない。一部の彼らがなぜ、初めて会う人間に対してあんなにも饒舌に、豊富に、無駄に、喋るべき自分事を所持しているのか、まったく不思議で仕方がない。ただ、それをすることが、場合に寄ってはとても効果的であることは、よくわかっている。それは高級な腕時計をちらつかせるような事と同じ効果を示す場合がある。が、残念ながら僕には持ち合わせがないとい。僕は、自分の経験豊富さや、過去の記憶や、あるいは生い立ち、また如何に信用に足る男であるかや自分とは何者か(何者として受け止めて欲しいと懇願するか)という解りやすいエピソードを人に話す気が毛頭無い。無いというか、それを話すことを考えていないし用意がない。そして、自己欺瞞にちかい自己表現の機会を編み目をかいくぐるようにして、極力避けて通っている。
どうしてそれを避けるのか。これは全く難しくない。昔ヤンキーでした。元暴走族です。昔(は)やせてました。昔(は)美人でした。昔、むかし、むかし、むかし・・・。そんなものが、一体全体どうだというんだろう。そんな昔のステータスなんかより、今の自前の自分のステータスで人に、事に、挑んだらどうなんだい?と思う。し、僕はその手の話を聴かされることが苦手なので、その話をさっぱりと無下あしらう。元なにがしでした。これをやる人間の肝の小ささを、卑しい無精を、出っ張った腹の肉塊を、うんざりするほど見聞きさせられてきたのだから、無下にもしたくなる。だからそういった、なんとかして自分を相手に認めてもらおうとする惨めで情けない欲望から、自らの身を遠ざけていたいと強く願ったし、現にそのようにして暮らしてきた。
僕はブログを書いてるんですだとか、僕は熱心に働いて仕事を成功に導いたんですとか、僕はサーファーなんですとか、そういうことはどうでもいいことでしょ。たった今目の前にある、新しい人物との出会い。この接点を起点にして、これより後の時間の中で僕との関わりそのものをアナタ自身が評価したらいいでしょ。そのように世の中と人付き合いを理解して、生きてきた。それが普通のことであると、考え、疑わず。
ところが。どうもそれではダメなようだ。そうやって暮らしてきたら、身の回りから「解りにくい」とか「謎」とか果ては「近付き難い」とか言われる頻度が多いってことに気がついた。誰と比べてということでもないが、そういう話を度々受けるのは事実だ。もっと深刻な水準では連れすらもが「なになに、そのはなし。初めてきいたワーワーワー」という。まあ言ってないのだから知らなくて当然なのだが、伝えたことと伝えていないこととをいちいち峻別して記憶に蓄えているわけにもいかないので、伝えてなかったということそのものに自分でも驚く始末。いくらなんだって、そりゃあ、喋らなさ過ぎだった、とすこしばかり反省した。
も少し、じゃなくて、もう大分。自分が過去においてどうであったか、また自分というのを解りやすく言うと何者であるのだよ、という種類のことを、営業マンよろしく立て板に水、しゃべれるようになっといたほうが世渡りというのは無難なのだ。
食べ物は何が好きで、ペットは何を飼っていて、映画は何が好きで、アイドルは誰が好きで、音楽は何を聴いていて、最近はまってる趣味は何で、最も感動した本はこれで、座右の銘はアレで。これに併せて、自分という人格が、如何に友好的であるか、如何に他より秀でているか、如何に気合いが入っているか、如何に知恵があるか、如何に腹筋が割れているか、如何にオシャレか、如何にセンスに溢れているか、如何に親友が多いか、如何に変わってると言われるか、如何にユニークな存在か、というようなことについてなにか自己欺瞞の足しになるようないい加減な方便を用意しておくことにしようと思う。