年がら年中ハッピーな気分でいつづけることは、あたりまえですが、難しいですね。

かなりとんでもないことでもでない限り、身に起るだいたいの事象は、考え方や捉え方次第。自分の胸先三寸で幸福にも不幸にもなれるとおもうんで、いい風に理解して進んでゆく以外に仕方などないんですけども。
でもこのコントロールは時としてとてつもなく難しかったりもします。基本的に体調が優れないときとか、頭が回ってないときとかは難しいですね。それから、これも当たり前のことですが、既に心が疲弊しきってしまってたりすると、もうなにが起っても良い理解に切り返すことが難しくなったりしますよね。


で、そういう基本的なことは対応のしようもあるんですが、応用編みたいなこととして、知れば知る程重い気持ちに押しつぶされそうになるというのがあります。
物事や仕組みを知れば知る程不幸感が増してゆくときってのは考えれば考える程ドツボなので、それだけは本気で勘弁してほしいなとか、個人的に思います。誰に勘弁されたいのかも良く判らないけど、ほんと勘弁です。

リスクコントロールの性質上、まずは予見される負のリスクを知る、リスクの要因となる事象を知るというのが第一歩だろうと思います。知ることから推し量ることができ、推し量れるから手配ができ、ついてはコントロールができるのですが、でも、あまり過剰に推し量りすぎると、あるいは知りすぎると、それだけで暗澹たる思いは膨らみ続け、まだ起ってもない事を憂うあまりに、身も心もまいってしまいます。

そうすると、明後日のために明日を犠牲にする、明日のために今日を犠牲にする。そういう非常に理性的でありかつ可哀想な生き様がそこに浮かび上がります。しかし結局のところ動物は、今を満足するために行動するのが最も素直な状態ですから、ね。

度を超して理性的だと、それはそれで、生き物的に悪いコンディションに嵌まってしまうんだろうとおもいます。身体壊したり、心壊したり、人間関係壊したり。どこかしらに無理のツケは来るのじゃないかと思います。かといって、「度」はどの水準なのか、それは判らないとくるんだから厄介な話です。辛くならない程度それがすなわち「度」だと言えるんだとおもいますが、さりとて明確なラインというものはないですね。
ひとつの指標として僕が考えているのは、身近な人に心配がられてるかどうか。身内に心配されてるような場合には憂慮が零れ出てしまってるわけで、これは度(キャパ)を越してるといっていいはず。そういうときには気楽になる工夫が必要なんだとおもいます。(それもまた難しいのだけど!)

明後日に希望を見る。明日の心配をやめる。今を楽しむために行動を決める。

一見享楽的で刹那的ですが、でも、そういう処方箋が必要な人は結構多いんじゃないかな。など、ふとおもいました。